松平定信(三)寛政の改革(ニ)

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寛政異学の禁

松平定信は学問にも規制を加えました。寛政2年(1790)寛政異学の禁です。湯島聖堂付属学問所における、朱子学以外の儒学を教えることを禁じたものです。

徳川家康が学者林羅山を重く用いて以来、幕府の学問といえば儒学であり、儒学といえば朱子学でした。

ここで退屈な話になりますが、ほんっっっとうに退屈な話になって申し訳ないのですが、この朱子学という(つまんない)学問について、簡単に語っておきます。

中国・南宋の朱熹(シュキ)がはじめた朱子学は、『論語』をベースにしながらも、独自の哲学体系を築いたものです。

日本には鎌倉時代初期に入ってきて、江戸時代に幕府公認の学問となりました。

その内容は儒教を哲学として体系化したものです。中心となる教えは「理気二原論」…理と気は互いに影響しながら存在している、というものです。

理とは宇宙全体の秩序・バランスといった形而上のもの。気とは、物体や精神といった形而下のものを指します。これら理と気が、互いに影響を与え合っており、分けることができないというわけです。

そこで人間が、行いや、心のもちようを正しバランスよくすることによって、「理」に至り、「理」そのものになることを目指すのが朱子学の根本です。

こう…おおざっぱに説明してもわかるように、頭でっかちの抽象論です。実生活に何一つ役に立たなさそうですね。しかも『論語』『大学』『孟子』『中庸』のどこを読んても、こんなこと一行も書かれてません。本来の儒学から大きくはずれた、後付け学問です。

ようは、人よ、「理」をきわめよ(窮理)。というのが朱子学の教えです。「理」をきわめるとはどういうことか?たとえば社会のありようとして、『論語』の説く「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」を実践するということです。すなわち、各人がその立場をわきまえて生きていく、ということです。

ようするに江戸幕府が人民を支配するのに朱子学は都合よかったわけです。戦国時代みたいに下剋上をやられたら困りますからね。逆らわない、物を考えない奴隷を量産するのに、朱子学はまことに理想的だったわけです。

家康は林羅山を重用し、幕府の正式な学問として朱子学を奨励しました。

寛永九年(1632年)林羅山は三代将軍徳川家光より上野忍ヶ丘(しのぶがおか)に与えられた土地に私塾と、孔子廟(先聖殿)を開きました。

これら上野の私塾と孔子廟は明暦の大火(1657年)で焼失しましたが、元禄三年(1690年)文治政治を進める五代将軍徳川綱吉は、林羅山の私塾と孔子廟を神田に移築。この地に湯島聖堂を築きました。

しかしその後は林家にすぐれた学者はあらわれず、朱子学は衰退しました。その上、朱子学はいたずらに抽象論をこねくり回すだけで実生活に何の役にも立たないという批判から、朱子学以外の学派が次々と立ち上がりました。

中江藤樹の陽明学、古学派の伊藤仁斎、ケン園学派の荻生徂徠などです。

松平定信の時代には、儒学の各派閥が入り乱れて、それぞれの説を唱えている状態でした。『論語』ひとつに20以上の解釈があるといった有様でした。

その状況に松平定信は不満でした。いろいろな説があるのは世の乱れる元だ。幕臣は朱子学だけを学ぶべきだ。ゴチャゴチャ異説を唱えるのは許さない、と。

まあ朱子学は世の中の現実を見ずに抽象論だけでゴリ押していく頭でっかちの学問なので、根っからの学者タイプである松平定信には居心地がよかったのでしょう。

そこで寛政2年(1790)寛政異学の禁となるわけです。朱子学のみを正学として、それ以外の儒学を湯島聖堂付属学問所で教えることを禁じました。

また素読吟味(そどくぎんみ)や学問吟味(がくもんぎんみ)といった朱子学の試験を行い、成績優秀者を表彰しました。

ただし松平定信は寛政異学の禁によって全国的な思想統一をはかったり、朱子学以外の学問を廃絶しようとしたわけではありません。

あくまでも、武士の学ぶ正式の学問としては朱子学で統一しようという話です。つまり公務員である以上は、上のやり方には従ってもらいますよということです。

事実、定信は蘭学を取り締まらなかったばかりか積極的に取り入れています。定信自身もオランダ語は読めなかったものの、オランダ語のアルファベットは習得しました。

寛政9年(1797年)には湯島聖堂付属学問所を幕府直轄の学問所とし、孔子の出身地昌平郷(山東省済寧市曲阜)にちなみ、昌平黌(昌平坂学問所)と名付けました。

以後、幕末まで、昌平黌では、朱子学が正式の学問として学ばれました。

失脚

松平定信の寛政の改革は、当初、世間から歓迎されました。しかし、二年たち三年たつうちに、反感の声が高まっていきます。

なにしろ定信は朱子学で全てをゴリ押しします。そして朱子学とは要するに机上の空論であり、頭でっかちの抽象論ですから、目の前の現実とあわないことが出てきます。そんな時定信は目の前の現実よりも朱子学の教えを優先することが常でした。

旗本・御家人の借金を帳消しした棄捐令も、はじめは「夢ではないだろうかと小おどりして」喜ばれましたが、すぐに問題が起こります。米価が下がったことと、札差はもう二度と武士に金を貸さなくなったことです。結果、棄捐令以前よりさらに武士は生活が苦しくなり不満があふれました。

庶民の間にも不満が高まっていました。質素倹約を強制され、娯楽を取り上げられ、なんと息苦しいのだと。

田沼意次を引きずり下ろして老中に就任した松平定信でしたが、どうにも固すぎる。かえって田沼時代のほうがよかったと、

白河の清きに魚もすみかねてもとの濁りの田沼恋しき

そう言って揶揄されたのは、有名ですね。

ついに将軍徳川家斉までも、松平定信をうっとうしがり、嫌うようになります。

結局、松平定信はあくまでも学者であり、政治家としては素人であったと言えると思います。

老中になって6年目の寛政5年(1793)7月23日、松平定信は将軍補佐と老中職を解任されました。

自ら提出した辞表が通ったためです。辞表が通ったときいて、定信はひどく腹を立てました。辞表はあくまでも形式的なことであって、引き止められるに違いない。ことによったら大老に昇進できるかも。そう考えていたようです。

老中解任後は白河藩の藩主として藩の政治を行います。隠居後は白河楽翁と号し、学問と執筆活動にいそしみました。定信は政治家であるだけでなく文芸を愛好し、詩歌にすぐれた風流人であり、頼山陽をはじめとする多くの学者と交流しました。

文政12年(1829)5月死去。享年72。墓は深川霊厳寺にあります。

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八代将軍徳川吉宗、田沼意次時代、松平定信時代、11代将軍徳川家斉の大御所時代を経て、天保14年(1843)に水野忠邦が失脚するまで。

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解説:左大臣光永

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