日米修好通商条約 調印前夜

幕末。アメリカと通商条約を結ぶに先駆け、幕府と朝廷、および幕府内部で行われた、さまざまな駆け引きについて語ります。

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勅許えられず

前回「ハリス来日」から続きます。

安政5年(1858)1月、老中首座・堀田正睦(ほったまさよし)は岩瀬忠震(いわせ ただなり)らをともなって上洛しました。アメリカと通商条約を結ぶにあたって、孝明天皇の勅許を得るためでした。

金さえバラまけば勅許はカンタンに下りるはず。

堀田正睦はそう考えていました。

天皇に一万両、関白九条尚忠(ひさただ)・内覧鷹司政通(たかつかさ まさみち)に一万両ずつ、武家伝奏(ぶけてんそう。武家からの奏上を朝廷に取り次ぐ役職)に千両贈ろうとしました。

しかし、誰も受け取りません。「受け取るな」と、孝明天皇から固く禁じられていたためです。

孝明天皇は大の外国人嫌い。神国日本に夷人を立ち入らせるなど、もっての他。自分の代からそうなったとあっては、伊勢神宮はじめにも代々の天皇に対しても申し訳がたたない。というお考えでした。

そのため、堀田正睦がどれほど金をバラまこうとしても、欲にかられて受け取ってはならないと、固く戒めてありました。また天皇にいわれるまでもなく、公卿たちのほとんどは攘夷論者でした。

「アメリカに従うなど神州日本の恥だ」
「拒絶して戦になったら打ち払えばよい」

といった意見が大半をしめました。勅許はカンタンに得られる。そう考えていた堀田の予想は、完全にはずれました。

3月20日、堀田正睦に孝明天皇より勅諚が下ります。「もう一度諸大名で話し合って、あらためて願い出でよ」と。つまり、「振り出しに戻った」わけです。堀田のそれまでの工作は、すべてパーになりました。

将軍継嗣問題

さて条約勅許問題と並行して、将軍家にはもうひとつ問題が持ち上がっていました。

13代将軍家定は病弱で、正座もできず、たえずぶるぶる震えており、身内以外と会うことを極端に嫌いました。

よっていつ死ぬかわからない。子供も期待できない。はやめに次の将軍を決めておこうということになります。いわゆる将軍継嗣問題です。

将軍に跡取りがない場合、御三家(尾張・紀伊・水戸)か御三卿(田安・一橋・清水)から後継者を出します。

この場合、二人の候補者がいました。

一人は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)(13歳)。

一人は前水戸藩主徳川斉昭の第七子で一橋家の養子となり、一橋家当主となった一橋慶喜(よしのぶ)(22歳)。

徳川慶福は将軍徳川家定のいとこにあたり、血筋の近さでいえば、一番の候補者でした。しかし慶福は安政5年(1858)の時点でわずか13歳。しかも病弱でした。しかし彦根藩主井伊直弼・紀州藩付家老水野忠央(ただなか)らは血筋・伝統が大事だとして徳川慶福を推しました。

一方、一橋慶喜はこの時点で22歳。心身ともに健康でした。一橋家当主として、賢明のほまれも高くありました。

老中阿部正弘(安政4年に没)・福井藩主松平慶永・薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)らは一橋慶喜を推します。

ペリー来航以来、風雲急を告げる情勢であるし、血筋にこだわっている場合ではない。ここはひとつ名君を得て、幕政を強固にしたい。たとえば外国使節を謁見となった場合に、徳川慶福より一橋慶喜のほうが威厳があるし格好がつく。そんな声も高まっていました。

こうして徳川慶福を推す南紀(なんき)派と一橋慶喜を推す一橋派とが対立を深めていきます。

南紀派と一橋派
南紀派と一橋派

井伊直弼をはじめとする南紀派は、あくまでも血筋が大事としました。

「人物の賢愚はこの際関係ない。日本では古来、血筋の正当性によって将軍を選ぶ。一橋慶喜がいかな賢明だからといって、血筋が近いほうを選ぶのが筋である」と。

一方、一橋派の動きとしては、安政3年(1856)、島津斉彬の養女敬子(すみこ)=篤姫が、将軍徳川家定の夫人として大奥に送り込まれました。これは阿部正弘・松平慶永・島津斉彬ら一橋派の工作でした。

篤姫
篤姫

大奥は将軍後継者の決定に大きな力を持ちます。中でも将軍夫人の意思は重要でした。将軍夫人から将軍家定に次の将軍は聡明な一橋慶喜殿にしましょうとふきこみ、さらに大奥全体の意見を一橋慶喜一色で染めさせる。…そんなねらいから、篤姫は家定の夫人として送り込まれたのでした。

このように、南紀派と一橋派の対立は、単に二人候補者がいてどっちを立てるかという問題ではありません。血統・権威を重んじる保守主義と、血統・権威よりも人物・能力を重んじる進歩・改革主義との対立と見ることができます。

こうした南紀派と一橋派の対立を背景として、安政5年(1858)1月に、老中堀田正睦が通商条約の勅許をもとめて上洛したのです。

そこで一橋派は蘭学者の橋本左内や西郷吉之助を京都に派遣。「年長・英名で人望のある者」を次の将軍に立てよという勅許が、孝明天皇から堀田正睦に下るよう、公卿やその家臣たちにしきりに働きかけます。

これに対し南紀派はそうはさせじと、国学者の長野主膳を京都に派遣。関白九条久尚(ひさただ)に働きかけ、一橋派を妨害します。

こうして一橋派・南紀派、双方の水面下での工作が行われた末に、

3月22日、孝明天皇より堀田正睦に勅諚が下ります。

「国務多忙の折ではあるが、すみやかに将軍の養子を立てよ」

とのことでした。「年長・英名で衆望のある者」という言葉は省かれていました。すなわち、一橋派が敗北し、南紀派が勝利したことをさしていました。

それはそれとして、本来、堀田正睦がほしかったのは通商条約締結についての天皇の勅許だったのですが、こちらについては何の返事も得られませんでした。

堀田正睦はむなしく京を去り、安政5年(1858)4月20日、江戸につきました。

次回「井伊直弼の大老就任と、日米修好通商条約の締結」に続きます。

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本日も左大臣光永がお話いたしました。ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永