ハリス来日

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安政3年(1856)アメリカ合衆国総領事タウンゼント・ハリスが来日し、日本に通商条約の締結を要求しました。

ハリス来日

安政3年(1856)7月21日、タウンゼント・ハリスが、アメリカ合衆国総領事として軍艦サン・ジャシント号(San Jacinto)に乗って、下田に到着しました。

「な、なにごとだ」

突然のハリス到着に下田奉行所は驚きます。すぐに事の次第を幕府に上申すると、幕府ではアメリカには逆らえない。認めるしかないということになりました。

「よい判断デス」

8月5日、ハリスは下田郊外柿崎の玉泉寺を総領事館として、星条旗をたかだかと掲げます。

タウンゼント・ハリスはこの年53歳。若い頃からニューヨークで東洋貿易にたずさわり、中国寧波の駐在領事を経て、日本駐在総領事に任じられました。

通訳のヘンリー・ヒュースケンはこの年25歳。オランダ出身でニューヨークに渡り、ハリスの書記兼通訳として採用されました。

ハリスの使命は日本に通商条約を締結させることでした。1854年の日米和親条約で函館・下田が開港されましたが、それは単に「港を開いた」というだけ。あくまでも第一段階でした。次は日本を貿易の場に引きずり出さねばならない。そのために通商条約の締結は必須でした。

ハリスはヒュースケンを通して下田奉行所に要求します。

「江戸で、将軍に、会わせてくだサイ」

猛反発が起こりました。

外国人が立ち入るのは長崎と下田・函館に限る。そう約束したじゃないか。江戸で、しかも将軍に会うなど、論外だと。

大の攘夷論者である徳川斉昭などは、「ひとたび江戸入りを許可すれば次は江戸城に入れろと要求してくるだろう。アメリカ一国にとどまらない。他の国もわれもわれもと要求してくるだろう」と、猛反発しました。

しかしハリスはしつこく、繰り返し要求しました。

ついに幕府も根負けして、ハリスの江戸入りを認めます。

ハリスの江戸入り

安政4年(1857)10月7日、ハリスはヒュースケンを伴って下田を出発します。天城峠を越えて、東海道に出て、箱根の関所にさしかかった時。

関所の役人から籠の戸を開けろと言われると、ハリスは、

「いやデス」

断固拒否しました。幕府役人も困り果てて、ついに開けずじまいで通しました。

10月14日、江戸入り。

10月21日、江戸城登城。13代将軍家定に拝謁します。ハリスは家定が「よく聞こえる、はっきりした、気持ちのいい声で返事をした」と書いています。

数日後、ハリスは老中首座堀田正睦(ほった まさよし)と会見します。

「アメリカと通商条約を結びナサイ。うかうかしてると、イギリスもフランスもロシアも日本に来ます。貿易を行えと、武力で脅してきます。もしこれを断れば、戦争になります。あなたがたは勝てるのですか?イギリス・フランス・ロシアの軍隊に。勝ち目はないですヨ!その点、アメリカは平和主義だ。戦争、大嫌いです。だから、アメリカと通商条約を結びなさい。そうすれば、もう話はついてマスと、アメリカからイギリスフランスロシアに言ってあげます。だから、アメリカと通商条約を結びなさい。もちろんアメリカは最恵国待遇で」

「ええぇ…でも」

「でもとかいいデスから!」

ハリスはしつこく要求しました。堀田正睦は、物腰が柔らかいかと思えば肝心なことはけして認めず、ええ…でも…と、のらりくらりかわしました。

「とにかく、よく話し合ってきめます」

以後、ハリスは一ヶ月待たされます。業を煮やしたハリスは再度訴えます。

「私が通商条約を結ぼうとして江戸に来たのは、日本のためを思ってのことデス。それなのに囚人同様の扱いだ。もういい。私は帰る。平和の使者に代わって来るのは、大砲と軍艦だ。その時日本は、はじめて思い知るだろう」

通商条約締結に向けて

幕府は慌てて目付岩瀬忠震(いわせ ただなり)・下田奉行井上清直(いのうえ きよなお)を全権委員に任命し、条約締結に向けての交渉に当たらせました。

交渉は13回にわたって行われ、安政5年(1858)正月に14箇条からなる条約案がまとめられました。

その間、ハリスはあるいは恫喝し、あるいは「日本のためだ」といい、あるいは「列強の艦隊が攻めてくるぞ」と恐怖をあおり、あの手この手で交渉しました。

よく知られている通り、これはアメリカ側に有利な、不平等条約でした。

第一に領事裁判権を認めること。第二に協定関税制。

領事裁判権を認めるとは、アメリカ人が日本国内で犯罪を犯した場合、アメリカ領事によって、アメリカの法律によって裁かれます。しかしアメリカの領事がアメリカ人をまともに裁くはずはなく、実質アメリカ人は日本国内で犯罪やり放題ということにもなりかねません。

協定関税制とはアメリカと日本が話し合って合意の上で関税を決める…という建前ですが、アメリカが強引に決めてゴリ押ししてくるに決まってました。日本は自分で関税を決められず(=関税自主権がなく)、アメリカさまに従うしかなくなります。

当時の幕府役人は国際法に対する知識が少なく、こうしたことはたいして問題にもなりませんでした。アメリカは日本人の無知につけこんで、不利な条件をゴリ押ししたとも言えます。

ハリスのいう「日本のためを思って」は、交渉のための詭弁でした。事実は「アメリカのための」「アメリカによる」押し付け条約でした。

とはいえ、日本側もアメリカの言いなりになっていたわけではありません。日本側代表の岩瀬忠震はハリスに強く食いさがり、ハリスから「タフ・ネゴシエーター」と称賛されています(つまり岩瀬忠震の頑張りがなければもっと酷い条件を押し付けられていたはず…)。

老中首座堀田正睦(ほったまさよし)は、修好条約の締結は避けられないと見て、諸大名を集めて意見を求めます。

「まあ、やむをえないでしょう」
「逆らうと後が怖い…」

諸大名の多くは条約締結に賛成しました。ペリー来航の時は打ち払えという意見も多かったのですが、5年の間に彼らの考えも変わっていました。しかし、通商条約を結ぶのはよいが、朝廷から勅許を得るべきだという意見が多々ありました。

国の将来に関係してくることだから、幕府の独断で決めるわけにはいかないと。

「それはもっともである」

堀田正睦もこれには同意しました。それで、ハリスと再度交渉します。

「正式にミカドから許可を得なくてはならない。条約締結は3月5日まで延期してほしい。」

「もしミカドが拒否すれば諸君はどうするのか?」

「幕府はミカドからのいかなる反対も受け付けないことに決めている」

「ならば許可そのものがいらないではないか!そんなことのために延期する意味がどこにある!」

「形式が大事なのだ」

堀田正睦はこんな感じでハリスをなだめておいて、

安政4年(1857)末に林大学頭(はやし だいがくのかみ)・目付津田正路(つだ まさよし)を上洛させ、公卿たちに通商条約の必要を訴えさせ…

ついで翌安政5年(1858)1月、堀田正睦は岩瀬忠震らをともなって自ら上洛しました。

次回「日米修好通商条約 調印前夜」に続きます。お楽しみに。

解説:左大臣光永