井伊直弼の大老就任と、日米修好通商条約の締結

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安政5年(1858)彦根藩主・井伊直弼が大老に就任。

アメリカとの通商条約に朝廷の勅許なしに調印し、一橋派をしりぞけて紀州徳川家の徳川慶福(家茂)を将軍跡継ぎにします。一橋派を中心に井伊直弼に対する反感が高まっていきます。

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井伊直弼 大老に就任

前回「日米修好通商条約 調印前夜」から続きます。

老中首座 堀田正睦が孝明天皇から通商条約締結についての勅許を得ようとして得られず、むなしく江戸に立ち返ったのが安政5年(1858)4月20日。

それから3日後の4月23日、彦根藩主井伊直弼が大老に就任しました。大老とは非常時のみ置かれる役職で、老中の上に位置します。井伊直弼は大老就任の当日から御用部屋に入り、老中の上にあって政務を執ることとなりました。

井伊直弼が早急に取り組むべき課題は二つありました。一つはアメリカとの通商条約調印。一つは将軍継嗣問題。

条約調印について、老中首座 堀田正睦はアメリカ総領事ハリスに安政5年(1858)3月5日を条約調印の期限とすると約束しました。その期限はすでに過ぎていました。堀田正睦はなんとかハリスを説得し、7月27日まで延期してもらいました。それまでに何とか、天皇の勅許を得る必要がありました。

もうひとつの将軍継嗣問題は、井伊直弼の大老就任によって一気に方がつきました。井伊直弼は紀伊徳川家の徳川慶福を推す「南紀派」です。

徳川慶福は現将軍家定と血筋が近い。能力人物如何という話ではなく、伝統・慣習にしたがって、血筋の近い徳川慶福を将軍に立てるべきだという考えです。

その井伊直弼が大老に就任したことで、幕論は南紀派にかたむきました。こうして5月1日、将軍徳川家定より、大老・老中に対して発表がなされます。

「紀州藩主 徳川慶福を後継者とする」と。

6月1日、諸大名を招集して将軍の跡取りを立てたことを公表し、翌日、朝廷に上申しました。しかしまだ徳川慶福の名はふせられていました。いよいよ朝廷からの勅許が届く折を見て、6月18日に公表しようとの井伊直弼の腹づもりでした。

その間、井伊直弼は一橋派に対する徹底した懲罰人事を行います。土岐頼旨(ときよりむね)・川路聖謨(かわじ としあきら)・鵜戸長鋭(うどの ながとし)ら一橋派の役人たちが、幕府要職からはずされました。

ハリス、条約調印を急かす

井伊直弼が徳川慶福を将軍後継者として発表する予定日として定めたのが6月18日。その前日の6月17日、思いがけない事件が起こります。

アメリカ総領事ハリスが軍艦ポーハタン号に乗って、横浜沖にあらわれたのです。

「アメリカと、急いで、通商条約を結びなさい」

ハリスが通訳ヒュースケンを通して下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震に対して言うことに、

イギリスとフランスが中国との戦争(アロー戦争)を終え、去る5月に天津条約が結ばれた。勝利に酔ったイギリスとフランスは、今度は日本に来て通商条約の締結を迫るという噂が立っている。そうなれば日本は、アメリカよりもっと酷い条件を飲まされるだろう。

「だから、アメリカと、急いで、通商条約を結びなさい。ぐずぐずしている暇はないデス。アメリカと通商条約を結べば、イギリス・フランスが何か言ってきても、もう話はついていると、アメリカから言ってあげます。だから、急いで、アメリカと、通商条約を結びなさい」

アロー戦争が5月に終わったのは本当ですし、イギリス・フランスが日本に貿易を求めて来るという噂も、実際にあったのかもしれません。しかしそれを日本につきつけ、危機感をあおったのはハリスの外交官としての抜け目ないところでした。

下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震はすぐにハリスの話を大老井伊直弼に上申します。

江戸城にて、大老井伊直弼・老中以下、対策を話し合います。

「とりあえず調印してしまっては」

「そうです。勅許のことは後で何とでもなる」

「ぐずくずしていると外国に攻め込まれる」

しかし井伊直弼は慎重でした。

「勅許なしの調印は…、何としても避けねばならぬ」

井伊直弼は井上清直に、勅許が得られるまでは調印はなるべく引き延ばせと命じました。

「どうしても調印しなくてはならない場合は、調印してもよろしいか」

井上清直がそう尋ねると、井伊直弼は、

「その場合はやむをえぬが、なるべくそうならないよう交渉せよ」

条約調印

しかし結局、勅許は間に合わずな、なし崩し的に条約調印の運びとなります。

安政5年(1858)6月19日、軍艦ポーハタン号の艦上にて、アメリカ側タウンゼント・ハリス、日本側井上清直・岩瀬忠震との間で、日米修好通商条約が調印されました。

ドン、ドン、

21発の礼砲が江戸湾に鳴り響きました。

日米修好通商条約は14箇条、貿易章程7則からなりました。公司の江戸駐在、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂に市を開くことなどが定めてありました。またよく知られているようにアメリカ側に一方的に有利な、不平等条約でした。

第一に領事裁判権を認めること。第二に協定関税制。

領事裁判権を認めるとは、アメリカ人が日本国内で犯罪を犯した場合、アメリカ領事によって、アメリカの法律によって裁かれます。しかしアメリカの領事がアメリカ人をまともに裁くはずはなく、実質アメリカ人は日本国内で犯罪やり放題ということになります。

協定関税制とはアメリカと日本が話し合って合意の上で関税を決める…という建前ですが、アメリカが強引に決めてゴリ押ししてくるに決まってました。日本は自分で関税を決められず(=関税自主権がなく)、アメリカさまに従うしかなくなります。

まさに「アメリカのための」「アメリカによる」押し付け条約でした。以後、半世紀にわたって日本は不平等回復のため、苦渋を舐めさせられることになります。

一橋派の反発

条約調印の事は堀田正睦はじめ五人の老中の連盟で、朝廷に奏上しました。すぐに猛反発が起こりました。

「勅許もなく条約を結ぶなど!言語道断!」

一橋派はがぜん怒ります。福井藩主松平慶永・水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)・前水戸藩主徳川斉昭・尾張藩主徳川慶恕(よしくみ)・一橋慶喜らが江戸城に押しかけ、井伊直弼を詰問しました。しかし井伊直弼は、

「押しかけ登城とは言語道断。このことへの処分は、後日きっちりつけさせてもらう」

将軍継嗣の公式発表

安政5年(1858)6月25日、江戸城にて諸大名に、将軍跡取りは徳川慶福(家茂)に決定したと、公式発表が行われました。(当初6月18日に予定されていたが、ハリス来航によって6月25日に延期となった)

一橋派は大いに憤りました。

「すべて井伊直弼の独断だッ、条約調印も!将軍の跡継ぎも!」
「井伊直弼、許すまじ!」

孝明天皇も激怒なさいました。

「幕府が勝手に条約に調印したのは、言語に絶することである。この上は何も思うことはない。これ以上聖蹟を汚すのも恐れ多いので、英明の人に帝位を譲りたい」

譲位したいとまで言い始めました。

井伊直弼、一橋派を処罰

7月5日、江戸城に押しかけ登城を行った罪で、尾張藩主徳川慶恕(よしくみ=慶勝)を隠居謹慎、福井藩主松平慶永(よしなが)を隠居謹慎、前水戸藩主徳川斉昭を謹慎、水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)を登城禁止、一橋慶喜を登城禁止としました。

十四代将軍家茂の就任

翌7月6日、将軍家定死去。享年35。8月に公式発表があり、徳川家茂が正式に14代将軍となりました。13歳でした。

次回「安政の大獄」に続きます。

解説:左大臣光永

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