長州「四境戦争」前夜

慶応元年(1865)幕府は二度目の長州征伐をもくろみ将軍家茂みずから出馬。この動きに対し、長州では保守派(俗論派)を処刑し藩論を「討幕」路線に統一。土佐の坂本龍馬を通して武器や軍艦を購入し、臨戦態勢を整えていきます。

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俗論派と正義派 長州藩の内紛
俗論派と正義派 長州藩の内紛

徳川家茂の出馬

元治元年(1864)12月の高杉晋作の武装決起は成功しました。翌元治2年(1865)はじめには俗論派の多くが追放され、奇兵隊など諸隊を中心とする正義派が長州藩の政権を握りました。2月28日、藩主毛利敬親は側近たちとともに俗論派の本拠地である萩から正義派の本拠地である山口に戻ってきました。

4月7日。改元あって慶応元年(1865)。

4月19日、将軍徳川家茂が再度の長州征伐を掲げ、5月16に江戸を出発するとお触れを出します。

「なんじゃそりゃあ!!」
「理不尽きわまる!」

長州では猛反発が起こります。

そりゃそうです。

長州は、先年11月に、三家老の切腹・四参謀の斬首・山口城の破却・藩主父子の自筆謝罪文の提出など、幕府から要求された講和条件をすべて実行しています。

長州に言わせれば、これで一件落着したはずでした。長州以外の外様藩もそう見ました。多くは幕府の理不尽に怒り、長州に同情しました。

しかし幕府内部では長州と戦わず講和に持ち込んだことへの批判が高まっていました。生ぬるい。徹底して長州を潰すべきだったと。それで再度の長州征伐が計画されたのでした。

閏5月22日、家茂一行は御所に参内し、孝明天皇に長州討伐の勅許を求めます。

「なに再度の討伐?だが長州は、すでに罪をつぐなったではないか」

「それが違うのです。長州国内で過激派が息を吹き返し、密貿易まで行っているという確証を得ております」

「だが…」

今回は孝明天皇も慎重でした。国内では幕府の横暴に対する批判が高まっている。そんな中、長州はたった一藩でよくやっていると長州に同情的な声も上がっている。そもそも幕府は長州と戦をして勝てるのか?もし幕府が負けて長州が政権を取れば、朝廷はどんな仕返しを受けるかわからない…

「とにかく事は慎重を要する。よく議論を尽くしてから、決めるべきである」

孝明天皇は返事を先延ばしにしました。徳川家茂はいったん大坂城に入り、天皇の返事を待つこととなりました。

桂小五郎の帰還

「幕府軍がふたたび攻めてくる」

長州では臨戦態勢をととのえます。

「とにかく桂さんを呼び戻しましょう」

伊藤俊輔・村田蔵六らが中心となって、桂小五郎の潜伏先を割り出しました。桂小五郎は昨年9月の禁門の変以来、但馬国出石(いずし)(現兵庫県豊岡市)に身を潜めて、長州を取り巻く情勢に一喜一憂していたのですが、呼び戻されて、4月26日、下関に帰還します。

「半年ぶりか…」
「桂さん、お帰りなさい」
「桂さん、よくご無事で…」

5月27日、桂は山口によばれ政治堂用掛・国政方用談役に任じられます。いわば毛利内閣の官房長官であり、実質上のトップでした。

山口の藩庁は桂小五郎以下、高杉晋作・井上聞多・伊藤俊輔・前原彦太郎(一誠)といった、元松下村塾のメンバーが中心となりました。

「今一応きっと大難は来り候覚悟にこれ無くては相叶わず」

(もう一度大難は来る。覚悟を決めないと話にならない)

桂は第二次長州征伐は確実にあることを前提に、長州国内の一本化をすすめました。まずは俗論派の処分。昨年暮れの高杉晋作の決起によって俗論派は国政から遠ざけられましたが、その処分はいまだ保留となっていました。そこで、藩論を統一する意味からも俗論派を切腹させあるいは斬首しました。

俗論派の処分を終えると、藩主毛利敬親から長州藩内にお触れが出されます。

「将軍が長州に向けて進発していることについて、道理を尽くして説得するのはもちろんだが、理不尽にも国境を越え乱入してきた際には、戦いとなることは確実である。決心して、今日よりは戦場と覚悟を決めよ」

薩摩との提携

しかし幕府と戦うには、長州には武器が足りませんでした。

目下朝敵扱いの長州は正規のルートでの武器の輸入はできなくなっていました。

そこで、薩摩藩の庇護下で活躍していた坂本龍馬を通します。

坂本龍馬の亀山社中が長崎のグラバー商会から薩摩島津家名義で小銃を買い付ける。そのまま薩摩には渡さずに、船で下関に運び、長州に売却する、という流れです。ようは、名義貸しビジネスです。

薩摩では第一次長州征伐のころから長州藩との提携を模索していたため、話はスムーズに進みました。

長州征伐の勅許下る

9月21日、孝明天皇はついに根負けして、幕府に長州征伐の勅許を下します。

薩摩の大久保一蔵は、長州征伐の勅許が下るのを阻止すべく工作していましたが、およびませんでした。大久保は9月23日付けの西郷隆盛に当てた手紙の中で、事ここに至った経緯を説明し、

「非義の勅命は勅命にあらず」

と書いています。

西郷隆盛は大久保のこの手紙を大坂で受け取った後、坂本龍馬にたくし、長州に届けさせます。薩摩藩の公式見解は大久保が言うとおりである、こんな勅命は認められないと、薩摩は長州に示したわけです。

軍艦購入

再度の長州征伐に備えて、長州では軍備を整えていきました。大量の小銃を買い入れ、兵士たちを西洋式に武装させました。残るは軍艦でした。

10月18日、亀山社中の近藤長次郎が、グラバーから蒸気船ユニオン号を買い入れました。そのまま長州に売却するため下関へ向かいます。薩摩藩島津家の名義で買い入れ、武器の購入ができない長州に流すという、小銃の時と同じ、名義貸しビジネスです。

長州への処分案

11月に入ると、幕府は広島に長州の代表者(宍戸備後介ら)をよび、長州藩内のようすを尋問しました。その報告をもとに、長州藩に対する処分案が作成されます。

・長州藩主(毛利敬親)の隠居
・藩主養子(毛利広封(ひろあつ))の蟄居
・10万石減封

これに対する勅許は慶応2年(1866)正月23日に下りました。

桂小五郎、京都へ

幕府側のこの動きを受けて、薩摩の西郷・大久保らは長州の桂小五郎との京都会談を急ぎました。その裏には土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎が薩摩・長州に手を結ばせようと、東奔西走していました。

薩摩から黒田了介(清隆)が山口へ向かい、桂小五郎を説得します(ただし桂はこれ以前から幕府の目をくらますため木戸寛地と名乗っていました)。

「桂さん、ここはお互い、意地張っとる場合じゃなか」

桂小五郎と西郷隆盛の会見は以前、下関で企画されたことがありました。しかしその時は西郷がすっぽかして、桂は大恥をかきました。そのため桂は西郷に不信感を抱いていました。

しかしその後、薩摩が長州のためにさまざまに手を尽くしてくれるなかで、桂の西郷に対する不信感はじょじょに弱まっていました。

「わかりました。西郷と話してみましょう」

慶応元年(1865)12月25日、桂小五郎は品川弥二郎らと共に下関をたち、京都へ向かいました。

次回「薩長同盟」に続きます。お楽しみに。

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京都にゆかりの歴史上の人物を一人ずつとりあげて語っていきます。
第一回は「菅原道真」です。

解説:左大臣光永