安政の大獄

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安政の大獄は安政5年(1858)から翌安政6年(1859)にかけて、大老井伊直弼が反幕府勢力に対して行った、大規模な弾圧です。全国で死罪・遠流・押し込めなど有罪判決者が70人あまり、謹慎・蟄居などをふくむと、のべ100人あまりが処罰されました。

「京都で学ぶ 歴史人物講座」第二回「行基と鑑真」
http://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info2.html

安政の大獄前夜

安政5年(1858)4月23日、彦根藩主・井伊直弼が大老に就任しました。大老とは老中の上に位置し、非常時のみ置かれる役職です。

井伊直弼は大老に就任すると、将軍徳川家定にはたらきかけ、紀州藩主徳川慶福を将軍跡取りにすることを認めさせてしまいます。一橋家の一橋慶喜を次の将軍として推していた一橋派は、とたんに落ち目になりました。

同年6月19日、朝廷からの勅許を待たずにアメリカとの間に日米修好通商条約が結ばれます。

これは、アメリカ総領事ハリスが、うかうかしているとイギリス・フランスがもっと酷い条件で貿易を迫ってくるからと、危機感をあおったのに乗せられてしまった形でした。

しかし、一橋派を中心とする人々は井伊直弼の独断専横であり、朝廷を軽んずる態度と見ました。

「勅許もなく条約を結ぶなど!言語道断!」

福井藩主松平慶永・水戸藩主徳川慶篤(よしあつ)・前水戸藩主徳川斉昭・尾張藩主徳川慶恕(よしくみ)・一橋慶喜らが江戸城に押しかけ、井伊直弼を詰問します。これに対し井伊直弼は、

「押しかけ登城など、それこそ言語道断!」

彼らに謹慎・登城禁止を命じ、動きを封じました。

安政5年(1858)7月6日、13代将軍家定が死に、紀伊徳川家の徳川慶福が名を家茂(いえもち)とあらため、14代将軍となりました。

「こんなことが許されるか!」
「すべては井伊直弼の独断ではないか!」

井伊直弼への反感は高まっていきました。

水戸密勅事件(戊午の密勅)

一橋派は、条約調印も、徳川家茂の将軍就任も、すべて井伊直弼の独断と見ました。

直弼憎しの声が世に高まっていきます。

梁川星巌・梅田雲浜(うんぴん)・頼三樹三郎・池内大学(いけうち だいがく)ら尊王攘夷派の志士たちは京に登り、鷹司家・近衛家・三条家などを通じて朝廷に働きかけます。幕府と水戸藩に、条約撤回・御三家への処罰の撤回などをふくむ勅諚を下していただきたいと。

時の関白九条尚忠はこれに反対しました。

朝廷から特定の藩に、幕府を通さずに直接、勅諚を下すなど異例のことでした。また九条尚忠は朝廷における最大の親幕派であって、幕府と朝廷の橋渡し役でした。幕府の不利になるようなことを認めるわけにはいきませんでした。

しかし九条尚忠の反対にも関わらず、件の勅諚は天皇のご意思であるといって押し切られます。

8月8日、幕府と水戸藩に勅諚が下ります。この年(安政5年)の干支から、「戊午(ぼご)の密勅」とも言われます。

文面は、幕府・水戸藩同文であり、条約調印と御三家への処罰を責め、幕府は御三家以下、諸大名とよく話し合って、内を整え、外国の侮りを受けぬよう方策を立てよといったものでした。

井伊直弼は、これら一橋派の動きを、腹心の長野主膳を通していちいち把握していました。

「これら悪逆の徒を、根絶やしにしなくてはならない」

関白九条尚忠への辞任勧告

井伊直弼が危機感を高めていた矢先、さらなる動きがありました。

一橋派を中心とする尊王攘夷派が、関白九条尚忠を辞任させようとして朝廷に働きかけたのでした。

九条尚忠は朝廷内における親幕府派で、これまで幕府と朝廷の橋渡し役として働いていました。

九条尚忠が辞任させられると、幕府にとっては朝廷への太いパイプが断ち切られることになります。そうなっては困ります。そこで幕府は妨害工作を行い、なんとか九条尚忠の関白辞任は食い止めました。

しかしこういう動きが出てくること自体が幕府にとっては驚異であり、大問題でした。

安政の大獄、はじまる

「もはや、見過ごすわけにはいかぬ」井伊直弼は反幕府勢力への大規模な弾圧に乗り出します。

安政5年(1858)9月7日、儒学者の梅田雲浜が逮捕されました。

梅田雲浜は小浜藩出身で、藩を追放され浪人していました。京都に出て塾を開き、反幕・攘夷運動をおこなっていました。そこを幕府に目をつけられ逮捕されました。

同時に、漢詩人の梁川星巌も逮捕されるはずでしたが、数日前(9月2日)にコレラで死んでいました。そのため漢詩の「詩」とかけて「梁川星巌は死(詩)に上手」と言われました。

これが安政の大獄の始まりでした。

「京の大老」といわれた長野主膳の指揮のもと、反幕派・反九条派に対する大規模な弾圧が行われます。

福井藩主松平慶永(よしなが)・前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)・尾張藩主徳川慶恕(よしくみ)らが引退・謹慎を命じられました。

勘定奉行川路聖謨(かわじ としあきら)、作事奉行岩瀬忠震(いわせ ただなり)といった幕府官僚も、一橋派よりだったので罷免されました。

松平慶永の右腕として京で活躍した福井藩士橋本左内、長州藩の吉田松陰、頼山陽の三男・頼三樹三郎も逮捕されます。薩摩の西郷吉兵衛(隆盛)と僧月照は、いちはやく危機を察して京を抜け出し薩摩に走りました。

これらの逮捕は、京都における反幕府派・反九条派に対する牽制として始まったことでした。しかし最初の案を出した長野主膳も、せいぜい数人を逮捕すればじゅうぶんと考えていました。まさか100人あまりを処罰する大事に至るとは当初、考えてもいなかったようです。

朝廷工作

その間、老中間部詮勝が参内し、朝廷に対して説明していました。

条約調印は、緊急のことで、仕方がございませんでした。

いずれ外国人は追い払い、鎖国の旧法に戻しますので、どうか一時的に、条約調印をお認めくださいと。

孝明天皇はガンとして条約調印には反対でしたが、朝廷関係者にまで追求の手がのびてくると、それが無言の圧力となり、ジリジリ追い詰められていきました。

そしてこの「無言の圧力」こそが、安政の大獄の狙いでした。

12月末に孝明天皇より老中間部詮勝に、勅諚が下ります。いわく、

「いずれ外国人は追い払い鎖国の旧法にもどすとのことであるので安心した。早めにそうしてほしい。条約調印がやむをえなかった事情は了解した」

逮捕者への処罰

その間、逮捕者への処罰が行われていました。

京都で捕らえられて江戸に送られたもの。各藩から江戸に送られた者。江戸で逮捕された者。境遇はいろいろでした。彼らは幕府評定所内の五手掛(ごてがかり)という五人の代表者(寺社奉行・町奉行・勘定奉行・大目付・目付)によって審議され、最終的に井伊直弼が処罰を決めました。

幕臣の中には寛大な処分を、という声もありましたが、井伊直弼は断固、厳罰に処す考えでした。

たとえば評定所では、この者はこれこれの罪ですので処罰はこれこれでよろしいでしょうかと、大老井伊直弼に伺いを立てた。井伊直弼から返ってきた返事には、罪が一段重くなっていた。追放は遠流に。遠流は死罪に、という具合に。

幕臣も、評定所も、こうした井伊直弼の態度を「冷酷」と見ました。あんまりだ。そこまでしなくてもと。

しかし井伊直弼の考えは、京都の反幕派・反九条派に対する牽制としては、軽い処罰ではダメだ。処罰はできる限り重くする必要がある。そのほうがインパクトが大きいと。

刑の実行

安政6年(1859)8月27日、10月7日、10月27日の三回に分けて刑が宣告されました。

前水戸藩主・徳川斉昭  水戸において永蟄居
水戸藩主徳川慶篤  公務差控
一橋家当主・一橋慶喜  隠居・謹慎
尾張藩主・徳川慶恕  押しかけ登城で処罰されたまま、ひきつづき隠居・謹慎
越前藩主・松平慶永  同じくひきつづき隠居・謹慎
土佐藩主・山内豊信 謹慎

切腹・死罪・獄門は8人に及びました。

水戸藩家老 阿島帯刀  切腹
水戸藩士 茅根伊予之助(ちのね いよのすけ) 死罪
水戸藩士 鵜飼吉左衛門 死罪
水戸藩士 鵜飼幸吉 獄門
越前藩士 橋本左内 死罪
頼三樹三郎 死罪
幕臣曽我家家来 飯泉喜内(いいいずみ きない) 死罪
長州藩士 吉田松陰 死罪

そのほか家臣・藩士・浪人も多数処罰されました。

幕府の追求は公卿にまで及びました。

左大臣近衛忠熙(ただひろ)・右大臣鷹司輔熙(たかつかさ すけひろ)・前関白鷹司政通(まさみち)以下、多数の公卿が隠居・謹慎・落飾・出仕停止などを命じられました。

安政5年(1858)から翌安政6年(1859)にかけて、全国で死罪・遠流・押し込めなど有罪判決者が70人あまり、謹慎・蟄居などをふくむと、のべ100人あまりが処罰されました。そのほか獄中で自殺、病死した者もいるので、被害者の数はさらに増えます。

目的は何だったのか?

安政の大獄で処罰された中には開国論者もあれば攘夷論者もあり、一橋派もあればそうでない者もあり、反幕的な考えを持つ者もあれば幕臣もいました。属性はバラバラでまったく一貫性がありません。

ここから安政の大獄が特定の立場や思想に対する弾圧ではなかったことがわかります。

幕府の権威回復。

これが安政の大獄の一番のねらいでした。

そのために、まずは京都における反幕派・反九条派にプレッシャーを与える。それがついには全国の諸藩にも、幕府にそむいたら大変なことになるぞというプレッシャーになり、幕府の権威回復につながる。井伊直弼はそう考えました。

だから京都における反幕派・反九条派にプレッシャーさえ与えられれば、処罰するのは誰でもよかったし、処罰はできる限り重くする必要がありました。

では安政の大獄によって幕府の権威は回復したのか?

しません。

むしろ有用な人材を多数失い、幕府の寿命そのものを縮めることとなりました。

井伊直弼への反発はいや増しに増し、翌安政7年(1860)3月3日、桜田門外の変で、井伊直弼は水戸浪士を中心とする襲撃者によって命を落とすこととなります。

次回「万延元年遣米使節」に続きます。

解説:左大臣光永

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