万延元年遣米使節

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安政7年(1860)正月、日本人77名からなる遣米使節がアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り、日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカに向かいました。

またこれに先駆け、勝麟太郎を艦長格とする護衛艦咸臨丸がアメリカに向かっていました。

使節一行は無事アメリカに渡り、大統領に会見。各地で大歓迎を受けて戻ってきました。

使節団の派遣

安政5年(1858)6月19日、大老井伊直弼が中心となって日本とアメリカの間に日米修好通商条約が結ばれました。

その内容は、日本側には税率を自由に決める関税自主権がなく、アメリカの領事裁判権(日本国内でアメリカ人が犯罪をおかした場合はアメリカ領事が裁く)を認めるという不平等条約でした。

なんて酷い条約だ!
夷狄に魂を売っ払いやがって!

不満の声は世に満ちました。以後、攘夷の気風はいよいよ強まっていきます。

さて正式に条約を批准するには、日本からアメリカに使節団を送って調印する必要がある。だから使節団を送ろうということになりました。

しかし、誰を行かせるかが問題でした。

開明的な岩瀬忠震(いわせただなり)は一橋派として大老井伊直弼に睨まれて左遷されていました。使節として内定していた永井直志(なおむね)は安政の大獄で処罰され、水野忠徳(ただのり)は左遷されていました。

結局、条約締結にほとんど関わっていない人物を選ぶことになりました。

外国奉行・新見豊前守正興(にいみぶぜんのかみ まさおき)を正使とし、同じく外国奉行・村垣範正(むらがき のりまさ)を副使に、小栗忠順(おぐり ただまさ)が目付に任命されました。

この人選に、アメリカ総領事ハリスは不満でした。条約締結の交渉に当たった者が含まれておらず、ハリスに親しい者が退けられていたからです。

それでも使節団派遣の計画は進んでいきました。

安政6年(1859)12月、アメリカ軍艦ポーハタン号が神奈川に入港。これにあわせて、出発は翌安政7年(1860)正月と決まりました。

日本側は、はじめ随行員88名と申し出ましたが、それでは多すぎるということで、77名で決まりました。

日本の使節団がアメリカにわたる。

はじめての出来事です。どうやったらいいのか、サッパリわからない。

アメリカ大統領に謁見する時の作法は?

貢物は?

外交使節としての立ち居振る舞いは?

船に掲げる日の丸の寸法は?

使節団はさまざまなことを幕府に問い合わせますが、幕府もそんなことわからない。老中以下、幕府役人たちは頭をかかえ、喧々諤々議論を重ねました。

咸臨丸

使節団の出発は安政7年(1860)正月22日と決まりました。

それに先立つ正月13日、咸臨丸が品川を出港。1月19日、浦賀水道を南下して太平洋に出ました。

咸臨丸は幕府の命令でオランダに造らせた木造軍艦です。3本マストに黒塗りの、50メートル足らずの小さな船でした。

提督には軍艦奉行木村喜毅(よしたけ)、艦長には軍艦操練所教授方・勝麟太郎、士官17以下、総員96名が乗り込みました。また著名な人物としては福沢諭吉や中浜万次郎が乗っていました。

そもそも咸臨丸での護衛は、勝麟太郎が言い出したことでした。勝は長崎の伝習所で海軍について学び、実際に船の操練を行っていました。

伝習所は安政6年(1859)に廃止となりましたが、使節団がアメリカに向かうときいて勝は飛びつきました。ただし、アメリカの船に便乗して行くという点が、勝には不満でした。

「日本の船で行けばよい」

勝は幕府にそう訴えました。幕府は断ります。たった4年しか操練していないのに日本の船で太平洋を渡るなど、キケンすぎると。もっともな判断です。しかし勝は粘り強く訴えました。

「もしアメリカ船が難破したらどうなります。いざという時のために予備の船が必要でしょう。日本の船を予備として行かせようという話なんですよ」

ついに勝は幕府に認めさせました。勝のこの粘り強さが名誉欲から出たことなのか?日本の将来を考えてのことか?あるいはその両方か?よくわかりません。

使節団出港

正月22日、使節団はポーハタン号に乗り込み、横浜を出港しました。太平洋を一路東へ。途中、暴風雨にあいます。この時、日本人の多くは船酔いに悩まされました。

20日ほど経った2月14日、ホノルル到着。使節団は国王カメハメハ4世と王妃エンマに拝謁。

「おお…」

はじめて見る異国の王族に、使節団は息を飲みました。特に王妃エンマは年のころ24、5。両肩をあらわし、薄物をまとい、胸のほとりを隠し、腰から下は美しい錦の袴のようなものをまとい、首には玉飾りをつけ、行きいてる阿弥陀仏のようであったと、副使村垣範正は記しています。

わだつみの 龍の宮ともいわまほし うつし絵に見し 浦島がさま

そんな戯れ歌を作っています。

ホノルルを出航して12日目にサンフランシスコに到着。すでに護衛艦・咸臨丸はついていました。勝艦長は船酔いで使い物にならなかったなんて、福沢諭吉が書いていますが、どうだったんでしょうか。

ワシントンへ

使節団はサンフランシスコでひじょうな歓迎を受けた後、西海岸を南下しパナマに到着。ここでポーハタン号と分かれてパナマ地峡横断鉄道に乗りました。列車の先頭にはアメリカと日本の国旗を掲げてありました。

ちなみにこの時、アメリカの州は31でしたから、星条旗の星の数も31でした。

パナマから大西洋岸のアスピンウォール(Aspinwall)まで77キロ。1時間半の旅です。日本人は皆、はじめて汽車に乗るものばかり。その驚きたるや大変なものでした。

なんという速さだ!草も岩も、どんどん通り過ぎていく!

こんな狭い地峡を、ひいっ、…ぶるぶる。よくもぶつからなぬ。

この強烈な音!

一行は驚き、目を見張りつつ、アスピンウォルに到着しました。アスピンウォルでアメリカの軍艦ロアノークに乗り、東海岸を北上し、ワシントンに至りました。

ワシントンでも一行は大歓迎されます。祝砲が次々と打ち上げられました。アメリカの新聞はこぞって使節団のことを報じました。特にちょんまげに強い感心を持ち、こまごまと描写しています。

3月28日、アメリカ大統領ジェームズ・ブカナンと会見しました。使節団一行は狩衣などの正装で馬車に乗り、会見にのぞみました。

副使村垣範正は、その様子を記録しています。

「大統領は70歳あまりの老人で、白髪、温和であり、威厳もある。しかし商人と同じような黒羅紗の筒袖・股引を着て、刀も帯びていない。このような席に婦人が顔を出すのもおかしな話だ。アメリカは世界一ニを争う大国であるが、大統領は四年ごとに入札で決めるそうだ」

夜になると国務長官の夜会に招かれ、そこでも使節団は仰天します。

数百人の男女が、テーブルの料理を食べたり酒を飲んだり、ダンスをして、夜遅くまで遊んでいる。夢か現か、まったく呆れ果てたこと。

また、婦人がとても大切にされていることに驚きを示しています。

アメリカ滞在中、使節団はいたる所で歓迎されました。工場・学校・博物館・芝居など、行く所は多く、忙しいことでした。

帰国

咸臨丸は護衛の任務を果たし、5月8日(新暦)にサンフランシスコを出港。途中、ハワイに立ち寄ってから、6月23日、浦賀に到着しました。

ハワイを出港してから福沢諭吉が皆に写真をみせました。

「あっ」
「福沢さん、これ!」
「どうだ、いいだろう」

それはアメリカの少女と、福沢のツーショットでした。写真屋の娘と、ちゃっかり写っていたのでした。アメリカにいる間に見せると皆が真似するだろうから、あえて船が出てから見せたのでした。時に福沢26歳。

その後、使節団は6月29日までアメリカ滞在。ニューヨークからアメリカ軍艦に乗って、コンゴ~喜望峰沖~ジャワ~香港を経て、万延元年(1860)9月27日、帰国しました。

彼らが海外へ行っていた間、万延元年(1860)3月3日、桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されていました。

次回「桜田門外の変」に続きます。

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解説:左大臣光永

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