最後の将軍・徳川慶喜(四)開国か?攘夷か?
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本日は、「最後の将軍・徳川慶喜(四)開国か?攘夷か?」です。
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前回の配信はこちら
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文久年間(1861-63)、朝廷は幕府に対して「攘夷、攘夷」と、矢継ぎ早に要求していました。しかし現実として、今さら条約を破棄して攘夷を行うなど不可能。幕府の方針は「開国」一色となっていました。
とはいえ弱まった幕府の権威を朝廷の威をかりてたてなおそうとしている手前、朝廷のメンツも立てなくてはなりません。徳川慶喜と松平春嶽は、「開国」と「攘夷」、「幕府」と「朝廷」の間で板挟みになって苦しみます。
和宮降嫁
久世広周・安藤信正政権「公武合体」
孝明天皇の妹宮「和宮」を将軍徳川家茂に降嫁する計画。
文久二年(1862)実現。和宮はいやがった
朝廷「降嫁?いいけど攘夷のプランをしめせ」
幕府(老中)「七・八年ないし十年をめどに、通商条約を破棄する」
苦し紛れ
↓
攘夷派の非難
謹慎解除
8月15日 斉昭死去。心臓破裂。享年61
「彦根藩の復讐か?」と噂
9月4日(井伊直弼暗殺から半年経過)
幕府の威信を守るため井伊直弼の死は長く伏せられていた
慶喜、松平春嶽らの謹慎とける。和宮降嫁による特赦
謹慎中に斉昭は亡くなっていた
薩摩藩の文久期の動き
幕府立て直しには
・朝廷との結びつき
・一橋派の赦免
・井伊グループの一掃
が必要だと。そのために
・将軍家茂の上洛
・五大老の設置
・一橋慶喜の将軍後見職就任
・松平春嶽の大老就任
が必要だと。
文久二年4月、島津久光(藩主忠義の父)、軍勢を率いて上洛。
朝廷にみとめさせる。
5月、勅使大原重徳を薩摩兵1000人が護衛して江戸へ
7月、慶喜の将軍後見職就任と
松平春嶽の政治総裁職就任を認めさせる。
薩摩の大砲で脅して
↓
慶喜と松平春嶽、政局に躍り出る。
島津久光、ニンマリ
薩摩に引き返す途上、横浜郊外生麦村で行列を横切ったイギリス人を斬る
生麦事件
↓
イギリス「賠償10万ポンド(27万両)」
文久の幕政改革
文久二年(1862)7月~
【松平春嶽】とブレーンの横井小楠、旧一橋派
慶喜は…?
・参勤交代緩和令 3年に1回、妻子の国元住居許可
・衣服改革令
・殿中儀礼・献上物廃止令(幕閣には不人気)
・勝海舟など開国論者の登用
・国事犯の赦免(井伊直弼や安藤信正を襲撃した犯人や安政の大獄で処罰されていた者)
朝廷からの「攘夷やれ」
文久二年9月末、勅使(三条実美、姉小路公知)江戸へ。
「攘夷いつやるの!?」
↓
松平春嶽「破約攘夷」(時間かせぎとしての攘夷)→幕閣、反対
徳川慶喜「断固、攘夷には反対」
会沢正志斎の意見書の影響?
「幕府がどうこういう問題ではない。これは国家全体の問題である。私はもう幕府はないものと考えて日本全国のために考えている。そのためには開国しかない」
↓
勅使到着に先駆け山内容堂の説得
慶喜、春嶽、攘夷論に転ぶ。
春嶽、慶喜、辞表(山内容堂の説得により幕論が攘夷になったため)
……開国・攘夷がコロコロかわる……
家茂「こまる!」
↓
文久2年12月5日、家茂「攘夷やります」 三条勅使
【奉勅攘夷】(天皇の勅許を奉じた上で攘夷を行う)体制
↓
来年、将軍家茂が上洛と決まる
攘夷について天皇に委細申し上げるため
12月15日、慶喜江戸を後にする
次回「徳川慶喜(五)慶喜、幕府と朝廷の間で苦労する」につづきます。
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