最後の将軍・徳川慶喜(一)出生から一橋家相続まで
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こんにちは。左大臣光永です。
朝から降っていた雨がやみ、気持ちいい春の陽気となったので、北野天満宮に参拝してきました。松の並木が青々として、参道の牛も、なんとなくのびのびと、楽しそうでした。境内の梅はすっかり散ってしまいましたが、次にくる桜の季節を楽しみに待っているかんじでした。
本日から20回くらいの予定で「最後の将軍 徳川慶喜」について語ります。
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徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜。
大政奉還を行ったことと、鳥羽伏見の戦いで不名誉な「敵前逃亡」をしたこと以外はあまり知られていません。
しかし慶喜は江戸幕府瓦解後も、静岡・東京と居を移しながら、大正二年(1913)まで長い「隠居生活」を送りました。
その間、慶喜はなにを考えていたのか?幕末のみずからの行動について。徳川の世について。死んでいった幕臣たちについて…。
ドラマや小説などでは語られることの少ない、慶喜の後半生にもスポットを当てて語っていいきます。
個人的な思い出
雨宝院
浮月楼
大政奉還の後、20 年余すごした庭園
等身大パネル
徳川慶喜について
幕末のキーマン
大政奉還以外はあまり知られていない
大阪城脱出による不人気
旧幕臣を見捨てて…
明治期の無言
趣味に没頭
誕生から一橋家相続まで
系譜
天保八年(1837)9月29日、江戸小石川の水戸藩上屋敷に徳川斉昭の七男として誕生。幼名七郎麿(しちろうまろ)。
天保の飢饉のさなか
同年2月、大塩平八郎の乱
6月、モリソン号事件
江戸湾に入ろうとしたアメリカ商船モリソン号を異国船打ち払い令により浦賀奉行が砲撃させた事件。
同船は漂流民送還のために来たのに。
↓
渡辺崋山『慎機論』、高野長英『戊戌夢物語』で批判。
↓
39年蛮社の獄。蘭学者への弾圧
父 水戸徳川家九代目・水戸斉昭(烈公)
尊王精神。軍政改革に力
母 有栖川宮織仁親王の娘・登美宮(吉子)
霊元天皇から発した宮家。
水戸徳川家の特質は尊王精神。
水戸学。徳川頼房・光國~『大日本史』
慶喜も水戸学の影響。
水戸で幼少期をすごす
天保9年(1838)4月、江戸→水戸。生後半年。
以後、一橋家相続まで水戸で育つ。
斉昭「天晴な名将となるか、手に余るようになる」
質素な水戸風。食事は一汁一菜
四歳から藩校の弘道館にかよう
文学・弓術・馬術
文武両道 はじめ「文」より「武」をこのんだが…
「仁者楽山」の書 六歳のとき
藩校弘道館
水戸藩士会沢正志斎 初代教授頭取
徳川斉昭
長男慶篤はじめほかの兄弟は期待薄。
七郎麿に期待
斉昭 攘夷論者。【海防論】をとく
はやくから水戸に帰国し幕政改革
弘化元年(1844)水戸郊外仙坡原で追鳥狩。慶喜同伴
幕府に直言→弘化元年(1844)5月→11月、江戸で謹慎
長男慶篤が10代水戸藩主となる。
弘化四年(1847)7月、
御三卿の一橋家に跡取りが絶えた。
8月、将軍徳川家慶、老中阿部正弘を介して水戸家に打診。
当時、水戸斉昭は謹慎中。
斉昭「七郎麿が将軍になれるかも!」
(御三家・御三卿の中で一橋系がもっとも将軍に近い)
御三卿とは?…
田安・一橋・清水 【系図】
十一代家斉は一橋家から出た。その子が家慶。
将軍スペア的な意味合い。
家慶の子は家定以外早世。
しかも家定は病弱で素行に問題あり。
なぜ慶喜?
・聡明の噂
・将軍家慶、水戸斉昭との関係改善を望む?
弘化四年(1847)8月、慶喜、水戸を出発。江戸城一橋門内の邸宅に入る。
9月、慶喜の一橋家相続が命じられる。11歳。
10月1日、家慶と会う。
家慶、いい印象→以後、慶喜をかわいがる。
12月1日、元服。慶喜(家慶からの偏諱)。従三位中将。
安政ニ年(1855)12月、結婚。一条家の養女美賀。
次回「徳川慶喜(二)黒船来航」につづきます。
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