四度の遷都

740年、太宰少弐藤原広嗣(だざいのしょうに ふじわらのひろつぐ)が九州で反乱を起こしました。朝廷では大野東人(おおののあずまびと)以下1万7千名を討伐軍として九州に差し向けます。

ところが、この事件のまっ最中、聖武天皇はおかしなことを言い出します。

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「これより伊勢・美濃方面へ行幸する」
「は?」

一同、ざわめきます。ミカドは何をおっしゃっているのかと。しかし結局伊勢・美濃への行幸は強行されます。九州では反乱が起こっているというのに。一行は伊勢から美濃へ入り、不破の関を越えて近江に入ります。

伊勢・美濃方面へ
【伊勢・美濃方面へ】

「まったく…ミカドはどういうおつもりなのか…」

琵琶湖を眺めながら、お供の者たちはつぶやいたことでしょう。

間もなく九州での反乱が収まり、首謀者藤原広嗣を処刑したとの報告が届きます。

「さあ帝、これでもう安心です。都へ戻りましょう」
「そうはいかん。遷都を行うのだ」
「は?」

12月5日、聖武天皇は平城京の北方、山背国相楽郡恭仁郷(くにきょう)への遷都を強行します。木津川沿いの甕原宮(みかのはら)とも呼ばれる地域です。古くから離宮が置かれ、元明天皇・元正天皇もしばしば遊びに来た場所です。

元明・元正・聖武天皇
元明・元正・聖武天皇

しかし東西・南北を山に囲まれて狭いので、都を築くにはまったく不向きでした。それでも都作りは強行されます。駆り出される民衆には、迷惑な話です。

伊勢・美濃方面へ
【恭仁京へ】

「なにがどうなってるんだ?」「遷都だとよ」
「えええ!都は平城京じゃないのかよ。勘弁してくれよ」

しかしこれだけでは終わりませんでした。恭仁郷がまだ完成しない742年聖武天皇は恭仁郷から東北の方角にある近江国甲賀郡紫香楽村(しがらきむら 現滋賀県甲賀市)に離宮を建設。これを紫香楽宮としてしばしば行幸。

紫香楽宮へ
【紫香楽宮へ】

さらに744年2月難波宮に遷都。難波宮は大化の改新の直後、孝徳天皇の時代に都が置かれてた場所です。

難波宮へ
【難波宮へ】

そして745年5月難波京から平城京へ戻り、ようやく落ち着きました。

平城京へ
【平城京へ】

なぜ聖武天皇が5年の間に4度も都遷しをしたのか、今日でも謎です。一説には壬申の乱における大海人皇子の行軍の再現だったと言われます。

事実、聖武天皇のたどったコースは壬申の乱で大海人皇子がたどったコースと重なります。従がう人々に壬申の乱を追体験させることで、「今回はただごとではない。国家の緊急事態だ」と実感させようという説です。

藤原広嗣の乱の間には都でも藤原氏による不穏な動きがあり、その牽制という意味もあったかもしれません。

いずれにしても、駆り出される民衆は、たまったものじゃなかったでしょう。

つづき 三世一身の法と墾田永年私財法

解説:左大臣光永

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