白河天皇と院政のはじまり

後三条上皇の即位

智暦4年(1068年)後朱雀天皇第二皇子、尊仁親王が即位します。後三条天皇です。

後三条天皇は平安時代初期の宇多天皇以来、
実に170年ぶりに摂関家を外戚として持たない天皇でした。
そのため、皇太子時代から藤原氏によって即位をはばもうと、
あの手この手で嫌がらせを受けていました。

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代々の東宮に伝えられる「壺切の剣」という宝物がありました。
いわば三種の神器の皇太子版であり立太子とともに摂関家の氏の長者から
皇太子に献上されることになっていました。

ところが関白藤原頼通は壺切の剣を
尊仁親王に献上しませんでした。23年間も。

「この件は藤原氏から生まれた東宮のための宝物であるから、
この皇子に献上することはできない」

「そうかそうか。ならば私には、そんな剣は必要ない」

こうして尊仁親王は壺切の剣を受け取らないまま
皇太子時代を過ごし、後三条天皇として即位しました。
ついに根負けした藤原頼通は壺切の件を献上しました。

このエピソードに代表されるように、
後三条天皇は皇太子時代から摂関家による
度重なる嫌がらせを受けてきました。

摂関家に対する恨みもそうとうなものだったでしょう。

(私が即位したからには、もう摂関家の好きにはさせぬ)

即位した後三条天皇は摂関家から勢いを奪うべく、
首尾一貫した政策をなさいます。

大規模な荘園整理を行い、摂関家の荘園を没収したのは
そのあらわれでした。

貞仁親王の立太子

後三条天皇即位の翌年の1069年、貞仁親王が17歳で皇太子となります。後の白河天皇です。その年には貞仁親王は藤原能信(よしのぶ)の女道子(みちこ)を后とし、さらに1071年3月には藤原師実の女、賢子(けんし)を后としています。

白河天皇 系図
白河天皇 系図

これら貞仁親王の二人の后のいずれに皇子が生まれても、藤原氏が外戚として復活してしまいます。

「うむむ…せっかく藤原氏との関係が切れたのに、貞仁が即位すれば元通りではないか」

後三条天皇は深く憂慮されました。どうしても藤原氏との関係は、絶たなくてはならぬ。そんな折も折、嬉しい事件が起こりました。

1071年3月、後三条天皇が寵愛していた源基子との間に実仁親王が生まれたのです。母は源氏。藤原氏とは何の関係もありません。

(やった。思ってもみない幸福)

本音を言うと貞仁親王を皇太子からおろし、実仁親王を皇太子に立てたかったことでしょう。しかし、それはあんまりだということか、後三条天皇は貞仁親王はまず貞仁親王を当初の予定通り即位させて、次の皇太子として実仁親王を立てさせることにしました。

白河天皇 系図
白河天皇 系図

「よいか。春宮には実仁を立てるのだぞ。その約束で、お前を即位させるのだからな」

「わかりました」

白河天皇の即位

こうして延久4年(1072)貞仁親王が白河天皇として即位します。

後三条上皇は、しかしまだ心配でした。新帝白河天皇は、藤原氏の女・中宮賢子を深く愛していました。皇太子として藤原氏と無縁の実仁親王を立てたとはいえ、実仁親王が退位した後は、藤原氏が外戚として復活する可能性はじゅうぶんに考えられました。

「ここは私が、上皇として権力をふるうしかない」

すなわち、後三条天皇はみずから主体的に、上皇として院政を行おうとした。その理由は、藤原氏を外戚に持つ白河天皇をおさえ、摂関政治の復活をふせぐことにあった、という説です。

しかし後三条天皇がほんとうに院政をまで行おうとしていたのかは、諸説あってハッキリとはわかりません。

白河天皇即位後ほどなくして、後三条上皇と源基子との間に第三皇子輔仁(すけひと)親王が生まれました。やはり、藤原氏と何の関係も無い皇子です。後三条上皇としては胸をなでおろしたことでしょう。

『源平盛衰記』によると、後三条天皇は白河天皇に申し入れました

「よいか。実仁が天皇に立ったあかつきには、輔仁を東宮に立てるのじゃ」

「はっ…仰せのままに」

つまり、藤原氏を外戚に持つ白河天皇をおさえ、摂関政治の復活を防ぐために、後三条天皇は遺言したのでした。

「弟の実仁親王を、次に輔仁親王を皇太子に立てよ」と。

こうして、実仁親王、輔仁と二代にわたって藤原氏と縁のない天皇が誕生すれば、摂関家との結びつきが切れることは必定です。後三条上皇の思い通りに運んでいくかに、見えました。

白河天皇 系図
白河天皇 系図

しかし父の遺言ではあっても
白河天皇は何となく釈然としないものを感じていました。

(将来、愛する賢子との間に皇子が生まれても、即位させることはできぬのか…)

後三条天皇の崩御

白河天皇譲位後の延久5年(1073)5月、後三条上皇は世を去ります。

御年40歳。

強くなりすぎた摂関家から天皇家に政治力を取り戻すため、
荘園の整理などさまざまな改革を、
自ら精力的に行われた天皇でした。

宇治に隠居していた前関白藤原頼通は、
後三条天皇崩御の報告を受け、はたと箸を止めて

「本朝の運つたなきによって、末代の賢主も早くに崩ぜられた」

そうつぶやいたと伝えられます。

後三条天皇はその治世の間、一貫して
摂関家の勢いを抑える政策を取ってこられました。

藤原氏の勢いをおさえ、摂関政治の復活を防ぐ。

それが、後三条天皇が生涯かけて取り組んで来られた政策でした。

その後三条天皇から見て、摂関家の氏の長者であった藤原頼通は、
いはば一番の敵です。にも拘わらず、
頼通は後三条天皇がお隠れになったことを、
このように嘆き悲しみました。

後三条天皇が名王賢主であったことを伝えると共に、
藤原頼通の長者としての風格をも伝える逸話です。

摂関家全盛期の終焉

延久6年(1074年)前関白藤原頼通が83歳の高齢で亡くなりました。
父道長の跡をつぎ摂関家全盛期を盛り立てた功績は大きなものでした。
宇治の平等院によって、頼通の名は今日まで強く記憶されています。

関白の地位はすでに弟の教通(のりみち)が継いでいました。
ついで頼通の子の師実(もろざね)が継ぐこととなります。

藤原頼通、教通、師実
藤原頼通、教通、師実

頼通が亡くなったと同じ年には、
頼通の姉である上東門院彰子が87歳で亡くなりました。

一条天皇の中宮となり、後一条天皇・後朱雀天皇を産み、
二代の天皇の母として、隠居後も長く後宮の大御所として
影響力を持ち続けました。
かの紫式部がお仕えしたお方としても有名ですね。

こうして、白河天皇の治世のはじめに、
摂関家全盛期を彩った大御所ともいえる人物が
相次いで世を去りました。

「一つの時代が終わった…」

多くの人が実感したことでしょう。

院政への道

後三条天皇崩御の翌年、
白河天皇と中宮賢子との間に
第一皇子敦文(あつふみ)親王が生まれます。

おお、おお可愛いのう。あなた、私たちの子ですよ、
大いに喜ぶ白河天皇と中宮賢子。

(しかし…この子を皇太子に立てることはできぬのか。
父の遺言とはいえ、血のつながらない弟などを
皇太子とするのは、納得がいかんのう…)

さて、敦文親王は四歳で亡くなり、
ついで第二皇子の善仁(たるひと)親王が誕生します。

白河天皇 系図
白河天皇 系図

(なんとかこの子を…父の遺言を無視してでも即位させたい)

さらに、善仁(たるひと)親王が六歳の時、
中宮賢子が28歳の女ざかりで亡くなります。

「何ということだ。賢子、余を置いて、どこへ行く」

白河天皇は中宮賢子を深くご寵愛でしたので、
すっかり意気消沈し、出家をほのめかすまでになりました。

そんな折も折、応徳2年(1085年)
父の遺言により皇太子に立てていた実仁親王が
天然痘をわずらって15歳で亡くなりました。

この一件は、意気消沈していた白河天皇の御心に
かすかな灯をともしました。

(これは…いけるのではないか)

皇太子の席はいまや空席となりました。

父の遺言によれば実仁親王の弟
輔仁親王を皇太子に立てるべきところです。

しかし、血のつながらない弟より、
実の息子に…と考えるのは当然です。

まして白河天皇にとって、
わが子善仁親王は亡くなった中宮賢子との一人息子であり、
その可愛さもひとしおでした。

(もはや…父の遺言など、知ったことではない!)

院政のはじまり

応徳3年(1086年)11月。

白河天皇は側近たちを前に、おっしゃいます。

「わが子善仁(たるひと)に、天皇の位を譲ることにする」

「ええっ…!しかし、善仁親王はまだ8歳…」
「それに先帝の御遺言では、次のミカドは弟君の輔仁親王のはず…」

「黙れ」

「私がやると言ったら、やるのだ」

白河天皇はわが子善仁親王を皇太子に立て、
その日のうちに譲位。善仁親王が堀河天皇として即位します。

そして堀河天皇即位後も白河上皇は、
皇太子を立てませんでした。

皇太子に立てるよう、父後三条天皇から
遺言されていた輔仁親王のことは、無視しました。

堀河天皇の後を継ぐのは輔仁親王ではなく、
将来生まれてくる堀河の息子である。

すなわち、父の遺言など聞かない。

私(白河上皇)は中継ぎの天皇などではなく、
将来は、私の直系の子孫たちが
帝位につくことになるのだという、宣言でした。

藤原氏に外戚の地位に戻ることを何よりも心配した、
後三条天皇のその心配が、いよいよ本当になってしまいました。

そして白河天皇は白河上皇となり、
8歳の天皇を補佐して、引き続き政務を執り行います。

「院政」のはじまりです。

次回「権力をふるう白河法皇」に続きます。
お楽しみに。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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