武田信玄と上杉謙信(十三) 七尾城の合戦

本願寺との和睦

天正3年(1575年)8月、

織田信長は越前一向一揆衆を殲滅すると、
柴田勝家を北陸方面軍総司令官に命じ、
加賀へ、そして越中へ侵攻させます。

これにより、それまで信長と同盟関係にあった
上杉謙信との間に対立が生じます。

この頃、上杉謙信はいよいよ上洛を目指して動き出したところでした。しかし京都の途中の越中・加賀・越前には信長の勢力が伸びています。上杉・織田がいずれ衝突するのは時間の問題でした。

翌 天正4年(1576年)、

上杉謙信は、反信長包囲網の形成をもくろむ
将軍・足利義昭の仲介で石山本願寺の顕如と和睦します。

「今、信長という脅威を前に、
過去の恨みにこだわり、いがみあっている場合でしょうか。
ここは手を取り合い、ともに信長と戦いましょう」

「謙信公!」

越中・能登攻略

信長の北陸侵攻が始まると、
七尾城内は意見が割れます。

七尾城
七尾城

七尾城
七尾城

「織田につくべきだ!」

「いやいや、謙信公こそ信ずるに足る!!」

しかし結局、長続連(ちょう つぐつら)以下が主張する
親信長派が勝ち、能登畠山家は信長と同盟。

結果として上杉と敵対することになりました。

謙信 七尾城へ侵攻

天正4年(1576年)11月、

謙信は
信長と同盟した能登畠山家を討つため
七尾城に侵攻してきます。

謙信、七尾城を攻略
謙信、七尾城を攻略

長続連は、

「徹底して、籠城戦を行う。よいな」

籠城戦を決め込みます。

こうして戦が始まりますが…

さしもの軍神謙信も
堅牢な七尾城には苦戦を強いられます。

12月に入っても城は落ちず、年改まって天正5年(1577)。

「これではキリが無い。
からめ手から七尾城を孤立させよう」

謙信は七尾城の直接攻撃を断念。
周囲の小城を落とし、
七尾城を孤立させる作戦に切り替えます。

熊木城、黒滝城、周囲の城は
次々と謙信に落とされていきます。

「ああ…やはり開城する他無いのか…」

その時、

背後から思わぬ動きがありました。

北条氏政の侵攻

「なに!相模の北条氏政が攻め込んできた!」

長年上杉と敵対関係にあった相模の北条氏政が
上杉家の領土上野に侵攻してきました。

謙信は背後を突かれた形です。

謙信は北条氏政を討つべく、
いったん能登を離れ、
天正5年(1577年)4月、越後春日山城に戻ります。

第二次 七尾城攻略

「た…たすかった!
越後の虎は退いたぞ!」

包囲を解かれた七尾城がほっと息をつく暇も与えず
同年閏7月、

北条氏政を撃退した謙信は、
再び能登に侵攻、七尾城を包囲します。

城内の長続連らは再度、籠城戦を決め込みます。

しかし、今度の籠城は
前回のそれとはまるで状況が違っていました。

夏、まっさかりです。

照りつける太陽。

不足する飲み水。

食糧は腐り、城内には糞尿のニオイが立ち込め、
不衛生極まりないことになります。

ついに疫病が発生し、、
当主春王丸も病死してしまいます。

信長への援軍要請

「このままでは七尾城は落ちる…
信長殿に後詰めを要請しよう…」

長続連は子の連龍(つらたつ)を使者として
信長のもとに送ります。

しかし信長のほうでもすぐに援軍を送れる状況では無く、
いたずらに日数が経つばかり。

季節は夏から秋へと移っていきます。

内通者

一方、
謙信も焦っていました。

「これ以上 戦が長引くのはまずい…
将兵たちの体力も気力も、限界に来ている…」

そこで謙信は
城内に間者を送り込み、遊佐続光(ゆさつぐみつ)・
温井景隆(ぬくいかげたか)らに
寝返りを持ちかけます。

「お味方していただけるなら、能登畠山家の旧領と
七尾城を差し上げましょう」

もともと遊佐続光・温井景隆らは親謙信派であり、
反信長派でした。その上、
長きにわたる籠城戦で疲れ切っていました。

「わかりました。内部からお力添えすると、
謙信公にお伝えください」

九月十三夜

遊佐続光からの書状が
謙信のもとに届いたのが九月十三日の夜。

「よし!!」

勝利を確信した謙信は、
陣営の中で杯を傾け、高らかに朗詠しました。

霜は軍営に満ちて 秋気清し
数行の過雁 月三更
越山 併せ得たり能州の景
遮莫(さもあらばあれ) 家郷 遠征を憶う

霜は軍営に満ちて、秋気が清清しい

雁がいくつかの列を成して飛んでいき、
月は真夜中の空に冴えわたる。

越中・加賀に加えて、今は能登の景色まで目の前にしている。
家族が私のことを心配しているだろうが…
ええい、そんなことはどうでもよいのだ。
七尾城 開城

遊佐続光は温井景隆、三宅長盛兄弟とともに
長続連・綱連(つなつら)親子を襲撃し、
一族100人余りを皆殺しにします。

そして9月15日。

約1年間に渡る籠城戦の果てに
七尾城は開城しました。

手取川の戦い

9月18日。柴田勝家を大将とする織田方4万8000の軍勢が加賀湊川(手取川。石川県石川郡湊町)を越えました。その知らせを受けた上杉謙信は、

手取川
手取川

「させるか」

ドカカドカカドカカドカカーーー

軍勢を率いて湊川に急行。柴田勝家軍は、「七尾城が落ちた」と聞いて士気が著しく低下していました。あそこここで上杉軍に破られる柴田勝家軍。

「かなわぬ!!」

柴田勝家は夜陰にまぎれて撤退しようとしますが、湊川の水嵩が増しており、難儀しているところへ、

わあぁぁーーーーーっ

上杉軍に追撃され、討ち取られる者1000名あまり、川に流される者はその数も知れませんでした。

「信長と雌雄を決する覚悟で臨んだが、存外、敵はもろい。この分なら天下統一もたやすかろう」

後に謙信はそんなことを語っています。

謙信 没す

湊川の勝利の後、謙信ははじめて七尾城の本丸に入ります。

「なんと素晴らしい景色だ。しかもここ七尾城は加賀・能登・越中の要だ」

謙信はたいそう満足し、いったん軍勢を整えるため越後春日山城に帰還します。

次はいよいよ上洛。

しかし。

翌天正6年(1578)3月9日、謙信は脳溢血で倒れ、意識不明のまま13日に没しました。享年49。上洛を前に夢かなわず無念だったことでしょう。辞世の詩。

四十九年一睡夢
一期栄華一杯酒

次回「鉄砲伝来」に続きます。

解説:左大臣光永