武田信玄と上杉謙信(四) 諏訪攻略

武田家臣団の面々

天文10年(1541)6月、武田晴信は武田信虎を追放し、武田家第19代当主に就任しました。躑躅ヶ崎館に武田家重臣たちを招集し、ぐるり彼らを見渡し、言います。時に晴信21歳。

「あえて親不孝の汚名をかぶって当主となったからには、
武田を大きくしていかねばらん。
お前たちの力を貸してほしい」

武田信繁は晴信の4歳年下の弟で、後に左馬介(さまのすけ)に就任しました。左馬介を中国風には典厩(てんきゅう)というので、武田典厩信繁が通り名になります。文武両道に通じ、兄信玄をよく補佐します。江戸時代の儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は「天文・永禄の間にあって賢とすべき人あり。甲州武田信玄の弟・典厩武田信繁これなり」と言っています

板垣信方(いたがき のぶかた)と甘利虎康(あまり とらやす)は、武田家臣団の両翼といえる存在です。

板垣駿河守信方は、もとは武田氏の一族でした。室町時代から代々武田家に仕えます。幼い武田太郎晴信の守役(もりやく。教育係)として剣術指南などに当たりました。武田家の政治部門における最高の役職「職(しき)」に任じられます。武田信虎を駿河に追放するにあたって、一滴の血も流さなかったのは、この板垣信方の働きによるところが大きいです。

甘利虎康(あまり とらやす)ももともとは武田の一族から枝分かれした武田家譜代の家臣です。板垣信方とともに政治部門における最高の役職「職(しき)」をつとめ、信虎・信玄二代にわたって仕えました。板垣信方と並び「両職(りょうしき)」と呼ばれます。

馬場信春(ばば のぶはる)はもともと馬場家ではないですが、名門馬場家の養子に入り、傾いた馬場家を再興しました。武力にも知力にもすぐれ、生涯70回戦ってかすり傷一つ負ったことはなく、「鬼美濃」の異名を取りました。信虎・信玄・勝頼の三代に仕えます。「知勇常に諸将に冠たり」と『甲斐国史』に記されています。

飯富虎政(おぶ とらまさ)は清和源氏の名門で、信虎の代から武田家に仕えました知勇兼備の名将で、「甲山(こうざん)の猛虎」と恐れられました。後年、信玄の嫡子義信の守役に命じられますが、信玄・義信父子の不和にともない、責任を問われ、自刃に追い込まれます。

飯富虎政の部隊は「飯富の赤備え」といって騎馬武者から兵卒まで赤い鎧で統一されていました。後に武田家が滅び、徳川に編入された際、「井伊の赤備え」として再編成されています。

諏訪へ

父信虎を追放してから一年後の天文11年(1542)ついに武田晴信は信濃攻略に向けて動き出します。父信虎の信濃攻略という目標を引き継いだ形です。信虎を追放したといっても、甲斐国の心細い領土を富ませるためには、外に討って出ないといけないことは変わりませんでした。

信濃攻略に当たっては、その入り口として諏訪と佐久が考えられます。このうち晴信は諏訪に目をつけます。この頃諏訪では、諏訪大社の神官の一族である、諏訪頼重(すわ よりしげ)と、同族の高遠頼継(たかとお よりつぐ)が争っていました。晴信(信玄)はここに目をつけます。

高遠頼継に使いを出し、「同盟して諏訪頼重を討ちましょう」と持ち掛けたのです。

「やった!甲斐の武田が味方してくれるなら、
負けるはずがない。諏訪の家督はもう、ワシのものじゃ」

高遠頼継は単純に喜びました。しかしもちろん信玄は諏訪頼重に加えて高遠頼継をも征伐するつもりでいました。しかも、すごみのあることに、武田信玄は自分の妹を、諏訪頼重に嫁がせているのです。

つまり、妹婿をこれから攻撃しようということです。

「しょせんワシの道は血塗られている。
父を追放した時に、すでに覚悟しておるわ」

諏訪頼重

天文11年(1542)6月、武田軍は躑躅ヶ崎館を出発し、諏訪に侵攻。

諏訪侵攻
諏訪侵攻

「なに!武田が攻めてきた?そんなバカな!」

諏訪頼重はあわてふためきます。諏訪頼重の妻は武田信玄の妹です。まさか義理の弟である自分を攻撃してくるなんて。信じられない!それが正直な気持ちだったでしょう。

「とにかく準備を整えよ!」

諏訪頼重は軍勢をかき集めますが…とっさのことで。集まったのは数百騎の心細いものでした。

「これでは武田勢に太刀打ちできません。唯一勝機があるとすれば、夜襲をかけることです」

「夜襲。いかんいかん。夜襲などという卑怯なマネは。
武士として、できん!」

そうこうしている内に武田の軍勢が上原城を包囲します。家臣の案内で上原城を脱出した諏訪頼重は北方の桑原城(長野県諏訪市四賀)に逃げ込みますが、そこをも武田勢が追いかけてきて取り囲みます。さらに同族の高遠頼継までが、武田信玄と協力して、諏訪頼重を攻めてきました。

「おのれ高遠!武田と通じておったか!!」

地団太を踏む諏訪頼重。しかしもう、どにもにならない。

「もはや勝敗は決した」

勝利を確信する、武田信玄。

「もはやこれまでか…。最期は華々しく散るのみ!」

討って出ようとした諏訪頼重に、武田信玄が使いを立てました。

「降伏されよ。悪いようにはせぬ」

「おお…やはり情はあるのう。さすがの武田晴信も、妹婿を殺すことはあるまい」

諏訪頼重は素直に武田晴信に降伏し、甲府に連れていかれました。

しかし信玄は、諏訪頼重を客人として篤く遇するだの、肉親として情けをかけるといったつもりは、ありませんでした。

ほどなく、躑躅ヶ崎館にほど近い東光寺に幽閉し、切腹を命じます。

「くっ…切腹!わかった。それならばよい。
だが最期に、酒と肴を持ってこい!」

すると武田の家臣が、

「酒はご用意しますが、肴はダメです」

「お前は言葉も知らんのか!切腹の席で肴といえば、脇差のことじゃ!」

「これは失礼いたしました」

すぐに脇差を持ってくると、諏訪頼重は、

「武田家でもこれほどの武士を切腹させたことは、あるまい。
よく見ておけ!」

ずぶっ、ずぶずぶぶっ

十文字に脇差を腹に入れ、

ずば

ごとん。

武田家の家臣に介錯されました。諏訪頼重、享年27。

こうして、非情なことに、妹婿を武田信玄は死に追いやったのでした。これより25年後、まさか実の息子信重をもこの東光寺にて自害に追い込むことになろうとは…この時の信玄は思ってもいませんでした。

諏訪攻めの後

「あなた、あなた!!よよよ…兄上、お恨み申し上げます」

14歳の武田信玄の妹は諏訪頼重に嫁いでいましたが、夫諏訪頼重が、兄武田信玄に殺されと聞いて、怒りと情けなさと悲しみにもだえ苦しみ、半年後、亡くなってしまいます。

こうして武田信玄の諏訪攻略は開戦後、一か月で終了しました。

それにしても。

妹婿の諏訪頼重を自害させ、実の妹をも死に追いやった。武田信玄こと武田晴信。その道はいよいよ血塗られたものになっていきます。

またこの時、信玄は諏訪頼重の娘を引き取り、保護しました。後にこの娘は晴信の側室となります。諏訪御両人です。信玄と諏訪御両人との間には、後に武田勝頼が生まれます。

その後、信玄は「手を結びましょう」と呼び掛けていた高遠頼継をも攻め滅ぼし、諏訪全域を手中におさめ、信濃攻略の橋頭保を手に入れました。

解説:左大臣光永