武田信玄と上杉謙信(五) 村上義清

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山本勘助

武田信玄は人材の登用にも熱心でした。

信玄によって信州を追われ上州に流浪していた真田幸隆(さなだ ゆきたか)が投降してくると、快く迎え入れ、武田家家臣として用います。

隻眼の軍師・山本勘助も、この頃、信玄に仕えるようになりました。

山本勘助ははじめ今川義元のもとに任官を願っていましたが、今川義元は山本勘助を用いませんでした。そこで板垣信方が山本勘助を武田信玄に推挙します。

「山本勘助?誰だそれは」
「は。三河国牛窪出身で、諸国をわたり歩いて武者修行をしております。
武力もあり、頭もキレる男です」

「ほーう、でそれほどの男が、なぜ任官しないのだ」

「それが…今川への任官を願っているそうですが、風貌が少し、変わっておりますので」

「面白い。そいつを召し出せ」

信玄は山本勘助に100貫を与えるつもりで召し出します。召し出された山本勘助は、

肌は浅黒く、隻眼で、なんとも異様な風貌をした男でした。加えて手足も不自由なようでした。

(なんだコイツ…大丈夫か?)

ざわざわする武田家臣団。しかし信玄は、

「これほどのブ男でありながら、名声が高いことを見ると、よほどの知略の持ち主なのだ。100貫目では足らぬ。200貫目与えよ」

山本勘助は心打たれ、

「お館さま!お仕えさせていただきます」

以後、山本勘助はその生涯を武田信玄に捧げます。その後、わずか半月の間に落とした城の数は9を数え、信玄をして、

「衆人の目は星のようだが勘助の隻眼は日月のようだ」

と言わしめました。

(山本勘助は長らく軍記ものの中だけの架空の人物と思われていました。しかし昭和44年(1969)、武田信玄の書状「市河文書」の中に、「山本菅助」の名が発見されました。これにより山本勘助の実在性が一気に高まります。

現在では山本勘助は実在した、というのがほぼ定説となっています)

無惨、笠原清繁

その後も、武田信玄の信濃攻略は断続的に続けられました。諏訪を切り取り、佐久を切り取り、一歩一歩、信濃攻略の地盤を固めていきます。

諏訪・佐久
諏訪・佐久

天文16年(1547)7月、武田信玄は信濃の豪族たちに背後から手を貸していた関東管領・上杉憲政軍の軍勢を碓井峠のふもと・小田井原(おだいはら)にて撃破。500人の首を打ち取ります。

しかしまだ敵はいました。上野・信濃国境に近い志賀城には、豪族笠原清繁(かさはらきよしげ)が、武田信玄に敵対していました。

志賀城
志賀城

ここには葛尾城の村上義清も増援を送っており、1000名が立てこもっていました。また、上野(こうずけ)からは関東管領上杉憲政の軍勢が援助に向かっていました。

「徹底して敵の士気をくじく」

そう考えた武田信玄は、打ち取った上杉憲政軍500人の首を、笠原清繁(かさはらきよしげ)のたてこもる志賀(しが。佐久市志賀)城の周りにさらしました。武田に逆らうとこうなるぞという、見せしめでした。

「な、何と酷い…!!」
「武田はあそこまでやるのか…」

「おのれ武田晴信!どこまでの残酷!
ええい大手門を開け!」

バカーーン

笠原清繁は

ぱかかっ、ぱかかっ、ぱかかっ、ぱかかっ、

駆けだしていき、さんざんに戦いますが、笠原勢は次々と打ち取られ、もはやこれまでと、笠原清繁も自害しました。享年32。

こうして志賀城は開城しました。

死者は笠原方300名あまり、武田方100名あまりと伝えられます。

城内に残っていた女子供老人百人はひっぱり出され、身寄りのある者は2-10貫の銭で見受けされ、身寄りの無い者は男は奴隷として売り飛ばされ、女は甲州金山の遊女として競売にかけられました。

村上義清 上原城の戦い

「ついに関東管領をも破った。ワシは行ける!」

勢いづく武田信玄。いよいよ本格的に信濃攻略に乗り出しますが、そこに、北信濃にその人ありと言われた村上義清(むらかみ よしきよ)が立ちはだかります。

天文17年(1548)。

上田原の戦場において、向かい合う武田軍と村上軍。

わあーーーっ
わあーーーーーーーっ

両者、攻めあいますが、武田軍は長い遠征をおこなってきたことであり、疲れ切っていました。

その上、信玄自身も持病の肺結核で体調が弱っていました。そこへ!

「板垣信方さま、討ち死に!」

「なに!信方が…!?」

信玄の幼い頃からの教育係、剣術指南を務め、何かと信玄に助言を与えてくれた板垣信方が、討たれたのでした。

さらに悲報が続きます。

「甘利虎康さま、討ち死に!」

信方と並ぶ、武田家臣団の両翼のかたわれ・甘利虎康(あまり とらやす)が、敵の伏兵に襲われて討ち死にしたのでした。

「信方…虎康…くっ…」

ガックリと肩を落とす武田信玄この時28歳。

板垣信方・甘利虎康。二人は武田家臣団最高の行政官である「職(しき)」を務める、武田家臣団の柱でした。その板垣・甘利を同時に失った…信玄の落胆はたいへんなものでした。

「武田はひるんでいるぞ。攻めろ!!」

そこに攻め寄せてくる村上義清の軍勢。

「お館さま!お逃げください!」

「うぬぬ…退くわけにはいかぬ。板垣・甘利のカタキじゃ!」

馬に乗って駆けだそうとする武田晴信。しかし、

ずばっ

「ぐはああっ」

敵兵が突き出した槍で、左腕に傷を負ってしまいます。

「とにかく、お逃げください」
「いいや、踏みとどまって戦うのじゃ!」

その後も延々6時間にわたって戦い、味方に700名あまりの被害が出ました。武田信玄、28歳。若き当主の初めて味わう挫折でした。

その後も信玄は、帰らぬ!必ず板垣・甘利のカタキを討つのだと言ってゴネましたが、母・大井夫人から「いい加減戻りなさい」と手紙が来て、ようやく甲府に帰還していきました。が、初めての敗戦に立ち直れず、しばらく呆然自失状態だったと伝えられます。

小笠原長時

「常勝将軍・武田晴信、敗れる」

その知らせは、信濃の豪族たちを活気づけました。

「今度は我々が武田を潰す番である!
武田晴信に一矢報いんとする者どもよ、
我の下に集え!」

信濃守護・小笠原長時はそう呼びかけて、今まで武田信玄によって虐げられてきた豪族たちを集め、連合軍を結成します。小笠原氏は千曲・安曇野を拠点として代々信濃守護を世襲してきた信濃の名門です。小笠原長時は自ら馬上の人となって、武田を攻めるため、武田方に奪われていた諏訪に侵入して放火。ついで勝弦峠に布陣。

「させるか!!」

しばらく甲府で落ち込んでいた武田信玄でしたが、動く時は速かった。5000あまりの兵を率いて躑躅ヶ崎館を出て、塩尻峠に近い下諏訪に布陣。これが天文17年(1548)7月18日夜半のこと。

「上田原の雪辱。必ずこの一戦にて晴らす」

19日早朝未明より、勝弦峠(かっつるとうげ)の小笠原長時軍に奇襲をしかけます。

わあああーーーーーっ

ぶおっふぉー、ぶおっふぉー、ぶおっふぉー

わあーーーーーーーっ
わああああーーーーーーーっ

どかか、どかか、どかか、どかか

疾風のごとき勢いで崖を駆け降りる武田騎馬軍団。

「なに!武田の奇襲だと!!」

小笠原長時軍は油断しきって野営しており、鎧もまともに着ていませんでした。

そこに押し寄せた武田騎馬軍団にさんざんに蹴散らされ、切り殺され、ほうぼうで打ち破られます。

「ぐぬう…武田晴信め…」

その後、小笠原長時の信濃における勢力は急速に衰えていきます。

武田軍の圧勝でした。

敗れた小笠原長時はほうほうの態で、村上義清のもとに難を逃れます。

「小笠原殿、大変でしたな。しかし安心されよ。
我ら手を取り合い、必ず、武田晴信を討ちましょうぞ」

「村上殿!」

こうして村上義清の下、信濃の豪族たちが集まり、戸石城に入ります。

解説:左大臣光永