徳川家康(二十ニ) 江戸幕府の始まり

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戦後処理

戦後の論功行賞では西軍に属した大名から多くの土地を没収し、東軍に属した大名に配りました。また家康の根拠地である江戸と、京・大坂に到るルートを譜代大名で固め、徳川に反旗を翻しそうな外様大名は領土を加増しつつ九州・東北など遠い地域に飛ばしました。

豊臣家も二百万石を65万石に減らされてしまいました。豊臣家が直接家康から処罰を受けたわけではないですが、豊臣家は各地の大名に土地の支配をさせて、その上に君臨していました。

そのため、西軍に属した大名が減封されると、自然豊臣家の領土も減るという形になってしまったわけです。こうして豊臣家には直接支配していた摂津・河内・和泉三国・計65万石だけが残りました。

江戸幕府を開く

慶長8年(1603)正月21日、家康は伏見城において後陽成天皇の勅使より征夷大将軍に任ずるという内示を受けます。2月12日、同じく伏見城で家康を征夷大将軍にするという宣旨が下されます。

3月21日、家康は伏見城を出て、かねてから建造中の二条城に入ります。秀吉が築いた聚楽第にならい、京都における将軍政庁として築いたものでした。

3月27日、家康は二条城で後陽成天皇の勅使より正式に征夷大将軍の宣下を受けます。

時に家康62歳。江戸幕府の始まりです。

この前年、薩摩の島津氏も上洛して家康に膝を屈していました。もはや日本中に家康に敵対しうる勢力はいなくなりました。大坂城の豊臣氏を除いては。

千姫を嫁がせる・豊国祭

同じき慶長8年(1603)7月、家康は孫娘の千姫を、秀頼に嫁がせます。これは亡き秀吉の遺言でもありました。

また家康の立場から言うと、豊臣方への懐柔策でもありました。つまり征夷大将軍を受けた直後であり、野心があるのでは?豊臣を乗っ取る気ではと、豊臣方から疑われかねない。そこで、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせることによって、私は豊臣に敵意など持っていませんよと示したのです。

時に千姫、七歳。

秀頼と千姫
秀頼と千姫

また家康は同じ時期に豊臣秀吉の七回忌として豊国祭を行い、世間に徳川家と豊臣家の結びつきを強調しました。

特に秀吉を祀る豊国社のある京都では、盛大なパレードが行われました。

花車風流を飾つて、花やかなる出で立ちにて、太鼓にかゝり、平等大会(だいえ)と打ち鳴らし、飛んづ跳ねつ、踊り上がり、拍子を合わせて乱拍子

『豊国大明神臨時祭日記』

京都の町衆が熱狂的に舞い踊り、大名たちは馬を並べ立ててパレードをし、公家も見物に訪れ、後陽成天皇までも御自ら見物されたと伝えられます。

家康としては大坂方・特に淀殿の懐柔のために行った豊国祭でしたが、あらためて京都における豊臣人気をつきつけられ、うむむと危機感を高めたことでしょう。

解説:左大臣光永