徳川家康(二十三) 大坂の陣前夜

本日は、「大坂の陣前夜・方広寺鐘銘事件」。

大坂の陣にいたるいきさつと、家康が豊臣家になんくせをつけた「方広寺鐘銘事件」について語ります。

がんばって淀殿のイラストも描きましたので、みていってください!

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秀忠に征夷大将軍を譲り、大御所となる

慶長10年(1605)4月16日、徳川家康は二条城にて三男の秀忠に征夷大将軍を譲ります。

秀忠の将軍宣下の儀式は伏見城で行われ、その後、秀忠は皇居で後陽成天皇に拝謁しお礼を奏上しました。その間、全国から諸大名が集まり新将軍秀忠に忠誠を誓いました。大坂城には豊臣秀頼がいるのに、誰一人秀頼のもとには伺いませんでした。

家康がわずか2年で将軍職を譲ったのは、なぜか?それは徳川家による将軍職世襲というシステムを早めに作り上げるためです。諸大名はたしかに家康に従っていました。しかしそれが家康個人へ従うのではまずい。家康の死後も、徳川家が代々将軍の位につく。それを諸大名に早めに認めさせたかったのです。

二大将軍秀忠は、家康の律儀で堅実な性格を受け継いでいました。しかし家康が律儀なだけでなく時に大胆に機敏に判断するのに対し、秀忠にはそのような大胆さはなく、融通がきかない堅物・クソマジメでした。

ある時、家康が側近の本多正信に言いました。

「秀忠は律儀すぎる。人は律儀なだけではいけないのに」

そこで本多正信は秀忠にその言葉を伝え、

「殿もたまには嘘の一つもおっしゃったほうがよろしいのでは」

そう言うと秀忠は、

「父君のような偉業を為した人物だからこそ嘘を言っても人は信じるだろう。
私のような何の働きも無い者が嘘を言った所で、だれも買い手は無かろう」

こんなふうに、まあ面白みの無い、律義者だったようです。

家康はそれ以後も、大御所として引き続き権力の座にあり続けました。

家康は将軍職を秀忠に譲った後、はしばらくは江戸城に留まっていましたが、慶長11年3月、駿府城に移り、ここを隠居場所と定めます。以後、ときどき江戸に来ることはあっても駿府城を家康は居城としました。そして大御所として、亡くなるまで権力の座にあり続けます。

二条城の会見

慶長16年(1611)3月28日、家康は後陽成天皇譲位、後水尾天皇即位のために上洛しました。その後、家康は二条城で豊臣秀頼に会いたいといって大坂城に連絡してきます。

「無礼な!会見したくば大坂城に来ればよいではないか!」

激怒する淀殿。

しかし秀頼のそばに仕える加藤清正・浅野幸長(あさのよしなが)がまあまあここは一つ穏便にと、淀殿を説得し、秀頼上洛と相成りました。

家康は秀頼を二条城の庭先まで出迎え、客間で対面しました。その場には秀吉室の高台院(お寧)もいました。秀頼のそばには加藤清正・浅野幸長の二名が控え、途中から池田輝政・藤堂高虎も加わります。

この時秀頼20歳。秀頼は7歳で大坂城に入って以来、12年ぶりの上洛でした。家康は70歳です。

会見はごくおだやかに、二時間あまりにわたって行われました。

加藤清正は、家康が秀頼公に何かしたら刺し違えて死ぬ覚悟で、懐中に刀をひそませていました。

しかし清正が危惧したような大事は何も起こらず、会見は無事終了しました。その後、秀頼は父秀吉を祀る豊国神社に参詣し、工事中の方広寺大仏殿を見て、その日のうちに大坂城に帰りました。

加藤清正は秀頼の乗った船が伏見から大坂に発つのを見届けてから自宅に帰り、懐の刀を抜いてじっと見つめると、「これで故太閤の御恩に報いることができた」そう言ってはらはらと涙を流したと伝えられます。

加藤清正は二条城会見後、熊本に戻ると、病気になり、慶長16年(1611)6月24日に亡くなりました。享年50歳。二条城会見直後のことなので、家康から毒まんじゅうを食べさせられたなんて話もありましたが…現在ではほぼ否定されています。

家康は成人した秀頼を見て、

「秀頼は天下の政を執るに足る人物だ。他人に遣われるような器量ではない」

そう言って本多正信に語ったところ、

「私に妙案があります」

そう言って、本多正信は秀頼に酒や女をすすめ、堕落させた…という話もありますが、あまりに話ができすぎており、嘘っぽいです。まあ、無能な二代目だと思っていたら意外にもキリッとしてたので、「油断できないぞ」くらいは思ったかもしれません。

方広寺鐘銘事件

さて家康の会見以前から豊臣家は故太閤秀吉の供養のため、近畿一円の寺院の修理・造営を行っていました。特に、方広寺の大仏殿造営は、その集大成となるはずの事業でした。

その大仏殿もようやく完成に近づき、落慶供養式が迫っていた慶長19年(1614)7月。

家康は突如、難癖をつけてきました。

大仏殿の鐘楼につるされた釣鐘に書かれた銘文に、問題がある。

「国家安康」これは家康の文字を二つに切り裂く呪いの言葉だ。

「君臣豊楽」これは豊臣家だけが栄えればいいと言っているのだ。

よって落慶供養は延期せよと。

もちろんこんなのは単なる言いがかりであり、家康はそれ以前から大坂城を攻める準備を進め、その口実を探していた所でした。鐘にケチをつけることを家康に入れ知恵したのは家康側近の僧侶・金地院崇伝(こんちいん すうでん)と思われます。

片桐且元の失脚

「ひどい言いがかりじゃ!」

激怒する淀殿。

「とにかく弁解しないと、大変なことになります」

穏健派の片桐且元が家康への弁解のため駿府に向かいます。しかし20日間の駿府滞在中、片桐且元は一度も家康との面会を許されぬまま、大坂に戻ってきました。

「仕方が無い。もうこれくらいやらないと、家康の気持はおさまらないだろう」

そこで片桐且元は3つの案を自ら考えて淀殿・秀頼に提案しました。

一、秀頼を江戸に参勤させる
一、淀殿を人質として江戸に差し出す
一、豊臣家は国替えして大坂城から出る

「どれか一つお選びください」

「な、な、こんなものが飲めるか!!」

激怒する淀殿。

「まったく片桐且元はとんでもない男じゃ!あれは駿府に通じているに違いない!」

しだいに片桐且元は裏切り者として遠ざけられるようになっていきます。

またこれは、家康の策略でもありました。家康は駿府では片桐且元を無視する一方で強硬派の大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)とは面会し、片桐且元が駿府に通じているというイメージを植え付けておいたのでした。

10月1日。片桐且元は大坂城を去ります。その後も大坂城内の穏健派は次々と追放され、残っているのは大野治長(おおのはるなが)を始めとする強硬派のみとなりました。

さて片桐且元を大坂城から追放といっても、片桐且元は形式上徳川の家臣でもあったので、それを勝手に追放したことが、徳川方にとって開戦の口実となりました。

片桐且元が大坂城を去ったまさにその10月1日、徳川家康は大坂城に対する攻撃を命じます。

大坂冬の陣の始まりです。

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解説:左大臣光永