徳川家康(七) 長篠の合戦

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武田信玄の跡を継いだ四男の勝頼は、父の志を継ぎ、上洛への野心を燃やしていました。

「都に武田の旗をたなびかせる。それが父の遺志であった。
そのために邪魔なのは…織田・徳川」

天正2年(1574)、武田勝頼は、美濃の明智城、遠江の高天神城を奪い、徳川・織田との国境をしきりに脅かしてきました。

天正2年、武田勝頼 明智城、高天神城を奪う
天正2年、武田勝頼 明智城、高天神城を奪う

翌天正3年。

武田勝頼は信濃から三河に侵攻。徳川方の足助(あすけ)城、野田(のだ)城を攻撃し、

天正3年、武田勝頼 足助城→野田城→長篠城
足助城→野田城→長篠城

4月21日。

奥平信昌(おくだいら のぶまさ)の守る長篠城に迫ります。

長篠城(愛知県新城市長篠)は豊川(とよがわ)と宇連川(うれがわ)の合流点に位置し、川に面した断崖に立つ、堅固な城です。

長篠城
長篠城

信玄の代に武田方の手に入りましたが、その後徳川方に奪われましたので、武田勝頼は今回、長篠城を奪い返しに来たのでした。

城代をつとめる奥平信昌(おくだいら のぶまさ)は、天正元年9月の長篠合戦で武田勝頼を裏切って徳川についた奥平貞能の息子です。なので、負ければ武田方に処刑されることは確実。

たとえ降伏しても受け入れてもらえるはずがない。それだけに奥平信昌は、死にもの狂いで長篠城の守りに当たっていました。

とはいえ武田方1万5000。奥平方守備兵は、わずかに500。圧倒的な戦力差です。

武田勝頼は長篠城北方1キロ・医王寺山に本陣を敷き、東の鳶ヶ巣(とびがす)山に付城(攻撃の拠点として敵城の近くに築く城)を築いて長篠城を攻めました。

長篠城は武田方の猛攻の前に、しだいに追い詰められていきました。

「救援を!長篠城を救ってくだされ」

岡崎城の徳川家康は長篠城の危機を見て、岐阜の織田信長に救援を求めます。

信長はちょうど伊勢長島の一向一揆を鎮圧した所で、兵力に余裕がありました。

「武田勝頼。徹底して攻め滅ぼしてくれん」

5月13日、信長は長男信忠とともに3万の軍勢を率いて岐阜を出発。この時、織田の兵士たちは大きな木と縄を持って移動しました。14日、信長は岡崎に入り、翌日、家康と会って作戦を練ります。

天正3年(1575)織田信長 岐阜→長篠
天正3年(1575)織田信長 岐阜→長篠

5月18日。織田・徳川連合軍は長篠城の西約4キロの設楽原(したらがはら)に到着。

5月18日、織田・徳川連合軍、設楽原に到着
5月18日、織田・徳川連合軍、設楽原に到着

織田・徳川連合軍は東向きに武田勝頼軍と向かい合う形となりました。

「堀を掘れーーーっ!!」

すぐに織田・徳川連合軍は作業に入ります。

連合軍陣地の東側、つまり武田勝頼軍側に、北から南に連子川という細い川が流れていました。この連子川の手前に、幾重にも空堀を掘り、掘った土で身かくしを作りました。そして馬の突撃をふせぐための柵…馬防柵(ばぼうさく)を築きます。

馬防柵。馬の突入をふせぐための柵です。

また信長は細川藤孝と筒井順慶から、優秀な鉄砲衆を動員させていました。その数は1000とも3000とも言われます。

一方、武田勝頼は。

一部の兵力を長篠城攻めのために残し、自ら主力部隊を率いて寒狭川(かんさがわ。豊川の上流)を越え、西に向かって陣をしきました。織田・徳川連合軍と武田勝頼軍との距離、二十町(2キロ)。

織田・徳川連合軍、武田軍対峙
織田・徳川連合軍、武田軍対峙

「信長に家康も出てきたか。
とはいえ、敵はいたずらに向かい合うだけで何の手立ても無いようだ。
この機に、信長・家康ともども、叩き潰してくれる」

武田勝頼は敵の兵力を見損ない、油断していたようです。

20日夜。

信長は、家康家臣の酒井忠次を大将として4000の兵を率いさせ、長篠城東の武田方・鳶ヶ巣山砦の攻撃に向かわせます。

5月20日、酒井忠次隊、鳶ヶ巣山砦を攻撃
5月20日、酒井忠次隊、鳶ヶ巣山砦を攻撃

21日朝。

酒井忠次軍は鳶ヶ巣山砦への攻撃を開始。

ターーーン、タターン、タターーーン

いっせいに鉄砲を撃ちかけます。敵は正面の長篠城とばかり思っていた鳶ヶ巣山砦は大混乱になり、すぐに砦は落ちました。

「それっ、長篠城を救え!」

勢いを得た酒井忠次軍は長篠城になだれこみます。

武田勝頼の本体は織田・武田本体との決戦のためすでに寒狭川を越えて西に行っており、長篠城攻めの武田勢はわずかでした。酒井忠次軍によってあそこ、ここに打ち破られ、

「あっ、味方だ。味方が来てくれた!」

がぜん勢いを取り戻した長篠城の守備隊も協力して、武田勢を追い払いました。

一方、主力軍の戦いは21日早朝から始まります。

長篠の合戦 布陣図
長篠の合戦 布陣図

信長は家康が本陣を置いた高松山に陣取り、敵の出方を冷静に見計らっていました。

「命令が下るまでけして動くな」

そう指示してありました。鉄砲隊千挺を並べ、佐々成政・前田利家・野々村正成(ののむら まさなり)・福富秀勝(ふくとみ ひでかつ)・塙直政(ばん なおまさ)を指揮官として、ついで足軽隊を敵陣近くまで出して徴発させました。

「おのれ小癪な。戦国最強・武田騎馬軍団の武威、思い知れ!!」

ばかかばかかばかかばかかーーーっ

武田方一番手

山県昌景隊が攻め太鼓を打ち鳴らし、織田・徳川の陣へ突撃してきます。

「引き付けろーー。もっと引き付けるんだーーっ」

ばかか、ばかか、ばかか、ばかかーーッ

「てーーーっ」

ターン、タン、タン、ターーーン

居並ぶ鉄砲隊、いっせいに射撃。

ぐはっ。

ぎゃああ。

どたーーー

ばたーーーー

武田の騎馬隊はさんざんに討ち殺されました。

二番手。

武田信廉(のぶかど)隊。この人は武田信玄の弟です。

どかか、どかか、どかか、どかかーーーーっ

つっこんで行くも、

ターン、タン、タン、ターーーン

居並ぶ鉄砲隊が、いっせいに射撃。

ぐはっ。

ぎゃああ。

どたーーー

さんざんに討ち殺され。

三番手・小幡憲重隊。

四番手・武田信豊隊。

五番手・馬場信春隊。

いずれも鉄砲の一斉射撃の前に、近づくこととてかなわず、退きました。

午後2時ころ、武田方の負けが大方決まり、武田方はボロボロになって退いていきました。

大将武田勝頼も退却し、ほうほうの体で古府中まで逃げ帰りました。

「う…うう…なぜこんなことに…。父君に申訳が立たぬ」

山県昌景・馬場信春・内藤昌秀・原昌胤…

武田家歴戦の家臣たちが、この戦いで死にました。

もはや勝頼に信長と戦う力は残されていませんでした。

もはや勝頼に信長と戦う力は残されていませんでした。

解説:左大臣光永