徳川家康(八) 岡崎信康切腹事件

岡崎信康切腹事件

この間、家康にとって悲痛な事件がありました。天正7年(1579)8月9月、織田信長の命により、嫡男信康と妻築山殿に死を命じたことです。

家康の正妻・築山殿は今川義元の伯母とも妹ともいわれ家康が今川家の人質時代に結婚しました。やがて嫡男の信康が生まれます。その後、桶狭間で今川義元戦死をはさんで、信康は5歳で織田信長の娘・五龍(本名不明)と婚約、後に結婚しました。これは織田・徳川両家の結びつきの証としての政略結婚でした。

しかし築山殿と家康の関係はしだいに悪くなっていきました。

築山殿は名門今川氏の出身であることを鼻にかけて、夫家康を軽んじました。

「ふん…いくら政略結婚とはいえ、なぜわらわがこんな男なぞに…」

家康もそんな妻の態度にウンザリしてきました。

「なんと傲慢な女だ…これだから名門出身はいかん」

反動で、側室としては名もなき出身の娘ばかりを愛するようになります。

家康夫婦の関係は冷え切っていきました。

また嫁・姑の関係も悪くなっていきました。なにしろ信康の妻・五龍は織田信長の娘。築山殿は今川氏の女です。今川氏を滅ぼしたのが信長ですから、…嫁五龍と姑築山殿との間には何かと冷たい空気が走ったことでしょう。

その上、五龍の夫信康は粗野な男でした。たびたび五龍に暴力をふるいました。五龍はしだいに追い詰められていきます。

「もうガマンできないわ!」

天正7年(1579)7月。信康夫人五龍は、父織田信長に手紙を書きます。

そこには姑築山殿の行状と夫信康の悪事十二箇条が書かれていました。中にも信康と築山殿が武田勝頼と通じているという項目は信長としても見逃せないものでした。

「うぬぬ…けしからん」

そこで織田信長は、家康に対して信康と築山殿を殺せと要求してきました。

「まさか、そんな!!」

驚く家康。ムチャクチャな話でした。しかしもし拒めば、信長との同盟関係が破綻します。正面に武田という敵を抱えている今、それは、できませんでした。

「許してくれ…」

悩みながらも家康は嫡男信康と妻築山御前の処刑を命じます。

8月29日。家康は遠州富塚にて築山殿を殺害させます。築山殿には直前まで事情が知らされていなかったようです。籠を降りた所を斬られました。築山殿の墓は浜松市内の西来院(せいらいいん)にあります。

9月15日。遠州二俣城にて信康に切腹させます。信康の首を切り落とした介錯人のふるった刀は、またしても「村正」だったと伝えられます。家康の祖父清康、父広忠ともに村正によって命を落とし…松平徳川家にとっては因縁深い刀でした。

信康の墓は浜松市の青龍寺にあります。

「くっ…どうしてこんなことになってしまったのだ」

妻と子を同時に失ったことは家康にとって生涯引きずる遺恨となります。ある時、幸若舞を見ていると主君の若君を殺せと命じられた家臣が、身代わりに自分の子を殺す場面がありました。家康はそれを見て、老臣二人のほうを向いて「お前たち、ここをよく見たか」と語ったと伝えられます。

またはるか後年、関ヶ原の合戦に望む際も、「もし信康が生きていてくれたら…」そうつぶやいたということです。

武田家滅亡

わが子信康を失った家康は、その悲しみを振り払うように当面の敵・武田氏との戦いに没頭していきます。信康の死んだ翌年の天正9年(1581)には遠州における武田方の拠点・高天神城を奪取。これにより武田方は急速に力を失います。

そして

天正10年(1582)3月、織田・武田連合軍の総攻撃により武田勝頼は追い詰められ、ついに甲州天目山にて自害しました。武田家家臣団の中にも勝頼を見限り、織田・武田方に走る者が多く出ました。中にも、古くからの武田家重臣であった穴山梅雪が織田・徳川方に走ったことが、武田家壊滅の決定打となりました。

解説:左大臣光永