豊臣秀吉(九) 鳥取城の戦い

鳥取城の戦い

天正8年(1580)5月、羽柴秀吉は弟秀長とともに因幡の鳥取城攻略にとりかかります。

鳥取城は久松山(きゅうしょうざん)の上にそびえる天然の要害でした。

「これを正面から攻めるのは愚である」

そこで秀吉は、城主・山名豊国(やまな とよくに)を調略します。

もとより毛利方不利を身に染みてわかっていた山名豊国は、

「わかりました。織田につきます」

アッサリ寝返りました。しかし家臣の中には織田に寝返ることをよしとしない者もいて

「冗談じゃない。我々は毛利の家臣ではないのか」
「簡単に裏切るなど、武士としてあるまじき事だ」

とうとう城主・山名豊国を追い出してしまいます。そして毛利方・吉川元春に書状を送ります。

「こうこうこういうわけで、不届きな城主は追い出しました。
どうか新しい城主を送ってください」

そこで吉川元春は、吉川の一族である吉川経家を新しい鳥取城主に命じます。

「経家、目下山陰では味方(南条氏)の裏切りもあり、
毛利方は苦戦を強いられている。
その上今年は不作で食料が足りない
そんな場所だが行ってくれるか」

「行きましょう」

吉川経家は鳥取城赴任に際し、自らの首を入れる、首桶を用意していったと伝えられます。

決死の覚悟だったんですね。

天正9年(1581)3月、吉川経家は鳥取城に入ります。

「すぐにも秀吉が攻めてくるぞ。
準備を怠るな」

吉川経家は、1400人の城兵のみで籠城戦の構えを取ります。秀吉が攻めてくるならば7月頃。それから4ヶ月も籠城すれば、雪が降ってくる。山陰の強烈な寒気の前に、秀吉は撤退するだろう…。

しかし籠城戦には食料が必要です。それが圧倒的に足りていませんでした。

折からの不作に加え、秀吉が米を高値で買い占めていました。籠城戦を見越して、若狭から米買船を送り、因幡国中の米を高値で買い占めていました。その高値につられて、鳥取城の城兵は大事な米を売り払っていました。

天正9年(1581)6月、秀吉・秀次は2万の兵を率いて鳥取城に攻め寄せました。

「秀次、今度の戦は気楽じゃ。のんびりやれ」
「ははは。何しろ囲むだけですからな」

一ヵ月、二ヵ月経つと…

すっかり食料が底をつきます。

「ひもじい…」
「もうダメだあ…」

城兵たちは木や草の根をかじって食べ、次には稲を刈り取った後の切株を食べ、次には牛や馬を殺して食べました。

それも尽きると、餓死者が続出します。

餓死者の死体のまわりに、わらわらと数人が取り囲み、
わあっ

ふがっ、ふがっ、ふがっ、ふがっ、

人肉を喰らい合うという生き地獄の有様となりました。

「これは…あんまりだ」

城主吉川経家は心を痛めます。私の命と引き換えに城兵の命は救ってくれと秀吉に願いました。秀吉はもとより吉川経家を殺すつもりはありませんでした。敵ながら見事な奮戦ぶりと、経家をほめました。しかし経家はあくまで責任を取って腹を切ると言い張ります。本人がそう言っている以上、秀吉にはどうしようもありませんでした。

10月25日、吉川経家は切腹となり鳥取城は落城しました。

辞世です。

武士(もののふ)の取り伝えたる梓弓
かえるやもとの栖(すみか)なるらん

解説:左大臣光永