豊臣秀吉(十) 備中高松城

備中攻め

天正10年(1582)3月、羽柴秀吉は鳥取から姫路に入ると、すぐに山陽道に出陣します。

「いよいよ毛利攻めの総仕上げじゃ。腕が鳴るのう」

そんなことも言ったでしょうか…

秀吉の軍勢に宇喜多直家の軍勢も加わり、総勢3万で、山陽道を西へ向かいます。目指すは名将・清水宗治の守る備中高松城。

高松城の手前には6つの城がありました。

宮路山城
冠山(かんむりやま)城
鴨(かも)城
庭瀬(にわせ)城
日幡(ひばた)城
松島城

これに高松城を加えて境目七城とします。

小早川隆景は秀吉との直接対決に先駆け、清水宗治はじめ七人の城主を呼び、

「羽柴秀吉は強敵である。
もし織田につくという者があれば、それは構わない」

すると、清水宗治はじめ七人の城主は

「ただ一筋に、お味方いたしまする」

そう答えたと。

そんな毛利方の思いをよそに!

秀吉は怒涛の快進撃を続け、6つの城を次々と落とし、備中高松城まで迫り、包囲しました。

備中高松城

4月15月、秀吉は備中高松城手前を包囲し、城を見下ろす竜王山に陣を敷きます。

「うーむ、これはカンタンには行かんなあ」

高松城は足守川沿いの平地に建つ細長い平城で、周囲を沼地と堀が囲んでいました。城主清水宗治はここ高松城に5000の城兵とともにこもり、決死の覚悟を固めていました。

まず秀吉は清水宗治に調略をしかけます。

「高松城を明け渡してくれるなら、備中一国を差し上げよう」

清水宗治の答えは、

「輝元公・隆景公の御恩に応えたい」

……

「やはり調略はムリか。官兵衛、次はどうするか」

「まずは小手調べといきましょう」

そこで小規模な勢力で城を攻めて様子を見ますが、高松城はまわりを沼地に囲まれており、馬が足を取られ、進むのが困難でした。

たちまち高松城内から矢を射かけられ、味方に損害が出てしまいます。

「官兵衛、どうしたものか」

「高松城は天然の要害。しかしながら低地にあるのが弱点です。
堤を作って水びたしにしてやりましょう」

「なるほど水攻めか!…お前、最初からそれを言えよ」

高松城近くの蛙ヶ鼻(かわずがはな)から足守川まで、3キロにわたって7メートルの堤防を築き、足守川の水を引き込みます。12日間の突貫工事でした。

ざばーーーーざばざばざばざばーーーー

たちまち水は流れ込み、高松城は湖の中に浮かぶ浮島のように孤立してしまいます。満々とたたえる水。その中にぽつんと浮かぶ高松城。その心細いこと!

「とにかく、高松城を救わねば」

知らせを受けて吉川元春・小早川隆景が1万の軍勢を率いてかけつけます。少し遅れて、毛利輝元も備中猿掛城に入り陣をしきました。

しかし軍勢が駆けつけたといっても、城は水の中の浮島になってますからね、どうにも手の出しようがない。

「くっ…どうすればいいのだッ」

毛利方は地団太を踏む。夜になって、水泳の得意な者に書状を持たせて、高松城の清水宗治に届けます。

「これではどうにもならない。降伏されよ」

清水宗治は、

「城を枕に討ち死にの覚悟です。心配ご無用」

断固、抵抗するつもりでした。

毛利方も、秀吉方も困ってしまいました。どちらから攻めるわけにもいかず、ニラミあいが続きます。

「これでは埒が明かん」

秀吉は安土にいる信長のもとに使者を飛ばし、援助要請をします。秀吉の要請を受けて信長は丹波の明智光秀に備中に向かうよう命じ、自らも軍勢を率いて5月29日、安土を出発。本能寺に入りました。

毛利輝元は、秀吉とは旧知である安国寺恵瓊を交渉役として秀吉の陣に遣わします。

「羽柴殿、お久しぶりでございます」
「恵瓊殿、堺以来ですなあ」

交渉が始まりますが、秀吉が毛利方に突きつけた条件は、

「五か国の割譲と城主清水宗治の切腹」

という過酷なものでした。

「それはあまりに!」

「それ以外で講和する気はござらぬ」

(ぐぬう…羽柴秀吉、足元を見おって)

そして運命の天正10年(1582)6月2日。

織田信長が本能寺にて家臣・明智光秀に討たれました。享年49。

解説:左大臣光永