大津京遷都と天智天皇即位

大津京遷都

667年 中大兄は都を飛鳥から大津へ遷します。

大津京遷都
大津京遷都

遷都した理由はハッキリわかりませんが、
内陸部に都を置くことで唐・新羅の
脅威に備えようというとしたという説が有力です。

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しかし、住み慣れた飛鳥の都を離れることに、
抵抗は強かったようです。

額田王は飛鳥を離れる悲しみを
歌に詠んでいます。

三輪山をしかも隠すか雲だにも
 情(こころ)あらなも隠さふべしや

(意味)慣れ親しんだ三輪山を見られるのももう最後かもしれない。
それなのに今、三輪山の姿は雲に隠れて見えなくなってしまっている。
雲よ、もしお前に心があるのなら、恋しい三輪山の景色を隠さないでほしい。

天智天皇即位

翌668年正月3日、

中大兄は長らく皇太子として称制を行ってきましたが、
いよいよ38代天智天皇として即位されました。

琵琶湖
琵琶湖

琵琶湖を見渡す宮殿の欄干によりかかって、

「ここまで長かった…」

「ミカド、おめでとうございます」
「鎌足。ここまで来れたのもすべてそちのおかげじゃ」

…そんなやり取りもあったでしょうか。

乙巳の変で蘇我氏を倒した時、中大兄は19歳。鎌足は30歳。
それからもう20年以上の月日が流れ、
中大兄(天智天皇)は42歳、鎌足は52歳となっていました。

中臣鎌足の死

鎌足の健康は日に日に弱っていました。
その時の冬の日、天智天皇が鎌足の舘に行幸されます。

鎌足は病の床に臥せっていました。
息子の不比等が取り次ぎます。

「父上、ミカドがお見舞いにいらっしゃいました」
「何?ミカドが…うっ、ごほっごほっ」
「鎌足、無理するな。そのままでよい」
「おおミカド…畏れ多いことです」

天智天皇と中臣鎌足は、ともに歩んできた20年来のことを
しみじみと語らいます。

「数々の敵を葬ってまいりましたからなあ。
今こうして病に犯されておりますのも、
恨みを買っているのかもしれません」

「何を弱気な。恨みを買っているというならむしろ俺のほうだ。
これからも俺の片腕として、俺を支えろ鎌足」

数日後、天智天皇は弟の大海人皇子を鎌足の舘に遣わし、
臣下では最高の位である「大織冠」の位を授け、
また鎌足の出身である大和国藤原にちなんで「藤原」の姓を授け、
大化の改新以来の功績をたたえました。

中臣鎌足あらため藤原鎌足。
そして息子の不比等の代に至って藤原氏のはじめとなります。

その数日後、鎌足は没しました。享年56。

≫次の章「大海人皇子の吉野降り」

解説:左大臣光永

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