足利義政と長禄の飢饉

烏丸御殿の建造

一般に足利義政というと、政治を顧みず優柔不断で、ついに応仁の乱を招いた。それは義政の無能と無責任が原因である。それでいて銀閣を築いたり、好き勝手な趣味生活に没頭した。バカ殿の代表のように言わる人物です。

しかし将軍就任当初の義政は、大名を統制し、足利将軍家の権威を高めることをマジメに考えていました。それは祖父義満、父義教の時代のようにです。

「まずは御殿を新しくするのだ」こうして烏丸殿(からすまるどの)の建造が始まります。ところが義政はその本質において政治家ではなく芸術家でした。美的こだわりにおいては、まったく妥協を知りませんでした。

「何か違うな…」「どうしても納得できない」

そんなふうに、義政の建築に対するこだわりは微に入り細に入り、しかも必ず義政自身が立ち合い、納得するまでやり直させるので、ものすごく時間がかかりました。費用もかかりました。それでも義政は一切の妥協を許しませんでした。

その烏丸殿もようやく完成を見ようという長禄2年(1458)義政はとんでもないことを言い出します。

「建物はいいんだが、やはり将軍御所は室町にないといけないな。
これ、そのまま室町に移してくれ」

烏丸殿から室町殿へ
烏丸殿から室町殿へ

は?ええっ?

ようやく完成しかけた烏丸殿を、そのまま室町に移せというのです。とんでもない。費用を考えてください!国家財政の破綻ですよ!回りはギャアギャア言いますが、たのむよ。義政は一切聞く耳を持ちませんでした。莫大な費用をかけて、御殿の移築は実行されます。

分一徳政

御殿だけでなく、義政の美術品に対するこだわりは徹底しており、妥協を知りませんでした。莫大な金がかかります。「将軍家にも困ったものです」「どうしたものでしょう。それでなくても民は借金で苦しんでいるのに…」「借金か…む、そこに解決策があるかもしれん」

そこで幕府は徳政令を出すことにします。ただし単に借金を棒引きにするのではありません。借金を棒引きにするかわりに、幕府に借金の十分の一を納めろ、というものでした。これを分一徳政といいます。

また一方で、高利貸し業者に対しても法律を発布します。それは、貸した金の五分の一を幕府に納めれば徳政にかかわらず借金の取り立てを認める、というものです。

「他人の借金で金儲けをするなんて、幕府もひどいもんだ」

恨みの声は巷に満ちました。

関税

分一徳政は思ったほどの成果が上がりませんでした。義政の妻・日野富子がそこで提案します。

「関税を取りましょう」

長禄3年(1459)幕府は京都の七つの出入り口にあった関所を廃止し、新しい関所を設けました。伊勢神宮改築のためと銘打たれていましたが、実際には義政の妻・日野富子の懐にその多くが入ったようです。

後に日野富子は関税で得た金を元手に高利貸しを始めました。「まったく日野富子は汚い」「金の亡者だ」世間はワアワア言いました。「金に汚い」というのが日野富子に対する後世の固定された評価ですが、はたして我欲でやったのか、傾きかけた幕府の財政を再建しようという思いだったのか、その両方か。何とも言えません。

とにかく、関税の取り立ては一定の効果を上げました。それでも、幕府の財源を立て直すには至りませんでした。

長禄の飢饉

長禄三年(1459)から始まった飢饉は、以後三年間に及びました。

鴨川が餓死者の死体でせき止められ、悪臭が洛中に満ち満ちました。京都では二か月で8万2千人もの餓死者が出たと記録されています。干ばつ、イナゴの大群。飢饉は京都から瀬戸内海沿岸、日本海側にまで及びました。ああ…飯…飯…もうダメだあ…ばたっ。いたる所に餓死者の死体が転がりました。

義政は父義教のような冷酷な専制君主ではありませんでした。むしろ民衆に対して穏やかな優しい気持ちを持っていました。義政は飢饉に苦しむ人たちに施しを行い、また、西芳寺の紅葉狩りに出かけた時、途中飢え苦しんでいる人々を見ます。そこで義政は側近の者に訪ねました。「どうして洛中の人々はあんなにもやせ細っているのか。余が税を取り立てすぎたのだろうか」

にも拘わらず、義政は浪費をやめようとはしませんでした。室町第の改築工事は、国中が飢饉に苦しむ中、断固として行われます。さらに義政は別の御殿の建造も計画していました。

みずからの理想とする美的世界をこの世に現出する。後に東山山荘(銀閣寺)として結実する義政の理想は、半端なものではありませんでした。義政にとってその理想の前では、人民の飢えなど、小さな問題でした。

後花園天皇、詩をもって義政を諫める

「世を顧みぬ義政の浪費ぶり、目にあまる」

後花園上皇は義政に一遍の漢詩を送り、義政をたしなめます。

同年の春の比より天下大きに飢饉し又疾病悉(ことごと)くはやり、世上三分二餓死に及。骸骨衢(ちまた)に満て道行人あはれをもよをさずと伝ふことなし。然ども時の将軍義政公は去る長禄三年二月花の御所を作り、是を御寵愛有り。山水草木に日々人民を費やし、水石を立ならべ、国の飢饉をあはれみ玉ふ事なく、あまつさへ新殿をつくり立らる。其比(そのころ)の帝王後花園院、是を聞召て将軍へ一首の御製を給。

残民争採首陽薇
処々閉序鎖竹扉
詩興吟酸春二月
満城紅緑為誰肥

残民争ひて首陽の薇(び)を採る
処々序を閉じ竹扉に鎖す
詩興の吟は酸たり春二月
満城の紅緑誰が為にか肥えし

将軍家是を拝見有て大に恥させ給、新殿造営を留玉(とめたまい)けり。誠に君も君たり臣も臣たりと世挙て関悦し奉る。

同年の春の頃から天下は大いに飢餓に陥り病気がどこでも流行り、世の中の三分の二が餓死した。死体がそこらじゅうに満ちて通行人はあはれを感じないことは無い。であるのに時の将軍義政公は去る長禄三年二月、花の御所を造り、是を愛でられている。山水草木に日々人民を使役し、水石を立並べ、国の飢饉をあはれみなさる事なく、そればかりか新しい御殿の建造まで行うのだ。当時の帝王・後花園院がこれをお聴きになって将軍へ一首の御製をお送りになられた。

生き残った民は洛中のぜんまいを採っている。(古代中国の周の武王の専制に反対した伯夷・叔斉の兄弟が、周の俸禄を受けるくらいなら薇を食ったほうがマシだといって餓死した故事による)

あちらでもこちらでも門を閉じて竹の扉に鎖をかけている。
詩を吟じて興ずるには、この二月はあまりに痛々しい。
都に充満する花も緑も、いったい誰のためなのだ(義政よ、お前一人のためのものではない)。

……

義政はさすがに恥じて、新しい御殿の建造は取りやめたということですが、本当でしょうか。

次回「応仁の乱(一)御霊合戦」に続きます。お楽しみに。

解説:左大臣光永

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