応仁の乱(一)御霊合戦

二人の将軍候補

八代将軍足利義政は、将軍就任当初は大名を統制し、足利将軍家の権威を高めるために意欲的でした。しかしことごとくうまく行きません。財政はひっ迫し、折からの飢饉でさらに大打撃を受けます。義政はしだいに政治にウンザリしてきました。

「飢饉は私のせいではないのに。世間は私ばかり非難する。どうしろっていうんだ!ああもう、ほとほとイヤになった。将軍なんて、何一つ面白いことはない。そうだもう、人に譲ってしまおう」

しかし義政には息子がいませんでした。そこで義政は弟が天台宗の僧となり義尋と名乗っていたのを召し出します。

「どうか、還俗して次の将軍となってくれ。わしはもう、将軍はこりごりなんだ」

「そんな、兄上困ります。私は仏門に入っているのですから。それに…お内儀の日野富子さまはまだ25歳。今後御子が生まれることもございましょう。そうなったらいろいろ面倒なことになります」

「や、その心配は不要じゃ。たとえ将来子が生まれても、お前に将軍職を継がせる。起請文をしたためよう」

「ううん…気がすすみませんがねえ…」

ついに義尋はこの話を受け、寛正五年(1464)還俗して義視と名乗り、義政と日野富子の猶子となります。

足利義視と足利義尚
足利義視と足利義尚


足利義視と足利義尚

ところが翌寛正6年(1465)11月、日野富子が男子を生みます。

「あなた、私たちの子ですよ」
「おうおう、やはり、いいもんだねえ」

「あなた、私はこの子を将軍の座につけとうございます」

「それはできぬ。すでに義視を将軍にすると、約束してしまったのじゃ」

「そんな約束、取り消せばいいではないですか!」

「しかしなあ」

「しかしも何もありません!私はこの子を、ぜったいに将軍にしますからね!!」

(ああ…メンドクサイことになったなあ)

義政は、日野富子の勢いに押され、あたふた、おろおろするばかりでした。

「まったくあの人の頼りないことといったら。黙っていたらこの子が将軍になれない」

日野富子は幕府第一の実力者・山名宗全に我が子・義尚の後見人になってくれるよう頼みます。

「義尚は三十歳を過ぎてやっと授かった子です。その義尚を寺に入れて僧にするなんて、私にはとてもできません」

「わかりました。必ずや、義尚さまを将軍に」

一方、

足利義視は管領細川勝元を後見人としました。

「私を将軍にすると、起請文までいただいたのです。それを、子が生まれたから反故にするなんて。そんな話ってありますか?細川殿、どう思われます?」

「なるほどそれはひどい。たとえ将軍であっても、約束は守らねば。わかりました。この細川勝元、義視殿にお味方したしましょう」

足利義視と足利義尚
山名宗全→足利義尚、細川勝元→足利義視

こうして、足利義視を後見する細川勝元と、足利義尚を後見する山名宗全との間で、対立が深まっていきました。

斯波・畠山の内紛

さらに話がややこしくなります。この頃、幕府の重鎮である畠山氏と斯波氏。それぞれに内紛が起こっていました。斯波家では、斯波義敏(しばよしとし)と斯波義廉(しばよしかど)が家督相続をめぐり対立。斯波義敏は細川勝元につき、斯波義廉は山名宗全につきました。

細川勝元派と山名宗全派
細川勝元派と山名宗全派

また畠山家でも家督争いが起こっていました。畠山政長(まさなが)は細川勝元につき、畠山義就(よしひろ)は山名宗全につきました。

こうして細川勝元派と山名宗全派で、対立はいよいよ深まっていきました。

「あーもう、名前がゴチャゴチャして、覚えられない!」

そう思いましたか?正常な感覚です。実際、応仁の乱はあまりに複雑で、入り組んでおり、主要な登場人物の名前すら覚えることは困難です。また覚える意義もありません。

ただ、山名宗全派と、細川勝元派に分かれて、対立が深まっていった、ということだけ覚えてください。

山名宗全・畠山義就のクーデター

応仁元年(1467)正月、山名宗全・畠山義就が、将軍足利義政・その弟義視を酒宴に招きます。しかしこれは単なる酒宴ではありませんでした。山名宗全・畠山義就は、将軍義政につめよります。

「畠山政長は管領にふさわしくない。辞めさせてください」
「そうです。今すぐクビにしてください」

細川勝元派と山名宗全派
細川勝元派と山名宗全派

「ううーん…しかしそんな簡単に…」

「なんですか?御所さまには何か考えが?」

「いや、その、ううむ…」

結局、優柔不断な義政は押し切られてしまいました。細川派の畠山政長の管領職を解き、山名派の斯波義廉を新しい管領にすえました。

ひとまずは、山名派の勝利です。

細川勝元の反撃

畠山政長を支持していた細川勝元は、怒りにふるえます。

「おのれ山名宗全。なんでも思い通りいくと思ったら大間違いぞ」

畠山政長派の者たちは腹いせに洛中で暴れまくります。

「うっひょーーーっ、ぶっ壊せ。好きなだけ奪え!」

彼らは、三条高倉、正親町三条で火をかけ、酒屋・土倉を襲い略奪しました。

これに対し山名宗全は、将軍足利義政につめよります。

「畠山政長の手の者が洛中で暴れまくっています。あんな非道な連中を、細川勝元はまだ支持しているのですか!御所さまから細川勝元に言ってやってください。畠山政長支持は、やめろと」

「いや、まあ、その何であるな」

「言ってくれますね!」

「わかった。言うだけ言ってみよう」

こうして足利義政から細川勝元に、畠山政長を支持することはやめろと通達が行きます。しかし素直に従う細川勝元ではありませんでした。

「こうなったら戦だ」

細川勝元は自宅に兵を集め合戦の準備を整えました。

御霊合戦

応仁元年(1467)正月、畠山政長は室町第の北東・上御霊神社に陣をしきました。一方、畠山義就は春日万里小路の自宅に火をつけて、室町第に兵を集めました。

御霊合戦
御霊合戦

将軍足利義政は焦ります。

「これでは戦になってしまう!洛中で戦なんてだめだ。畠山の内紛に、誰も首をつっこんではならん」

そう言って細川勝元・山名宗全以下の諸大名に通達しましたが、それほど効果はありませんでした。

「敵は上御霊神社にあり!」

どかかっ、どかかっ、どかかっ、どかかっ

正月18日、朝からみぞれまじりの激しい風がふきすさぶ中、畠山義就の軍勢は、畠山政長のたてこもる上御霊神社を襲います。

「火を放てーーーっ」

ご、ごおーーーーー

強風にあおられて、炎はまたたく間に広がり、わぁーーー、きゃーーーー。阿鼻叫喚の地獄絵図となりました。

さて細川勝元は畠山政長を支持してはいましたが、将軍義政の「畠山の争いに、首をつっこんではならん」という通達を律儀に守り、軍馬を出すことはしませんでした。

ところが、山名宗全は将軍義政の通達を無視して、公然と畠山義就に味方して軍馬を出します。

御霊合戦 関係図
御霊合戦 関係図

「おお、山名宗全殿が加勢してくださるぞ。勝利は我らにあり!」

わああーーーっ

結果。山名宗全の援軍を受けた畠山義就側が圧倒的に優勢で、畠山政長勢を打ち破りました。畠山政長はほうほうのていで細川勝元邸に逃げ込みます。合戦は畠山義就側の圧倒的な勝利に終わりました。

細川勝元は、保護すべき畠山政長を見捨てたということで、世間の厳しい非難をあびます。

「ひどいなあ、細川勝元さまは」
「武士の風上にも置けん」

そんなふうに噂されたのでした。細川勝元は屈辱です。

「おのれ山名宗全!約定を破りおって…」

次回「応仁の乱(二)細川勝元と山名宗全」に続きます。

解説:左大臣光永

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