嘉吉の乱

血の祝宴

「将軍さま、結城合戦の勝利を祝って、わが赤松家で宴を催そうと思います」

「ほう宴か…」

「それに鴨の子がたくさん産まれましたので、ぜひ将軍さまに見ていただきたいのです」

「ほう、それは面白そうじゃのう」

嘉吉元年(1441)6月24日、播磨守護赤松満祐の二条西洞院の屋敷で、結城合戦の勝利を祝う宴会が開かれ、将軍足利義教が招待されました。

供奉する人々は管領細川持之以下・畠山持永・山名持豊・一色教親・細川持常・大内持世(もちよ)・京極高数(たかかず)・山名煕貴(ひろたか)・細川持春・赤松貞村、それに公家の正親町三条実雅(おおぎまちさんじょう さねまさ)がいました。

あっはっはっは
ほっほっほっほっ

いや~愉快愉快。

なにしろ永享の乱に続き結城合戦と、戦が絶えませんでしたからなあ。
こうして平和に酒を飲んでいるのが一番です。そうですとも平和が一番

宴もたけなわになった頃。いよいよ猿楽が始まります。

ぴい~ぽん
ぴい~ぴい~ぽん

かっぽんかっぽんかっぽん

おお…ううむ…。幽玄の美にうっとりする面々。

その時!

どががっ!どがががっ!!

「何事じゃ!」

「雷鳴でありましょう」

のんきに答えたのは将軍足利義教の傍らに座っていた正親町三条実雅です。見ると、庭に数頭の馬が放たれ、外部に通じる扉が閉じられていました。

「なんじゃぁ…?」

その時!

かぱーーーーーーーーーん!!

障子が開き、甲冑をまとい、太刀をふりかぶって、武士数人が部屋の中に乱入。

「なんじゃ!お前たちは!」
「無礼であろう」

「足利義教、覚悟!」
「ひっ…」

ぶん

ずばっ

ごとん

赤松家の家臣で一番の豪の者・安積行秀が、足利義教の首を切り捨てました。

「た、助けてくれええーーーっ!!」

楽しかった宴の席は、血の海となります。

山名煕貴は抵抗するもその場で斬り殺され、細川持春は片腕を切り落とされ、京極高数・大内持世は瀕死の重傷を負い、後日息を引き取りました。

「お、おのれ賊めええーーーっ!」

一同の中で勇ましいこととはもっとも縁のなさそうな公卿・正親町三条実雅はしかし、勇敢にも、赤松氏から将軍に献上された黄金作りの太刀をひっつかみ、

きえーーーーっ!

敵に立ち向かいますが、

ずばっ。

ぐ、ぐぶう。

どさっ。

斬られてしまいます。

「あ…あわわわ、大変だぁ、大変だぁ」

管領細川持之は、管領という将軍を補佐する立場でありながら戦いもせず、守りもせず、真っ先に逃げ出しました。これは後々非難と嘲笑の的となりました。

赤松満祐 播磨に下る

さて、長年にわたって独裁者として君臨してきた足利義教が突然いなくなり、幕府は機能停止に陥ります。

「どうしよう。大変だ。どうしよう。大変だ」

管領細川持之は、まったく統率力の無い、気の弱い人物でした。どうしよう。大変だ。どうしよう。大変だと、何ら具体的な対策が立たないまま、時間だけが過ぎていきます。

その間、赤松満祐は二条西洞院の屋敷で、幕府の討手を今か今かと待ち構えていました。そもそも赤松満祐はなぜ凶行に及んだのでしょうか?それは、赤松満祐は猜疑心の強い将軍足利義教が、次々と有力な守護大名を討伐するのを見てきました。

「次はやられる」

という危機感が赤松を凶行に駆り立てたようです。もちろん赤松は将軍を殺して無事ですむなど思っていませんでした。幕府の討手が攻めてきたら潔く自害しようと赤松は覚悟を決めていました。

「…それにしても遅いなあ。まだ来ないのか。幕府の討手は」

「お館さま、幕府も混乱しているのではないでしょうか」

「ふむ…。なにしろ義教が今まで何でも独断で決めてきたからのう。何をどうやっていいのか、わからんのかもしれんのう」

夜になっても討手は来ませんでした。

「そうか。幕府は手をこまねいておるか…であれば、トコトンあがいてみるのも悪くはないな」

赤松満祐は部下に命じて屋敷に火をかけさせ、一族引き連れて領国播磨に下ります。その際、足利義教の首を槍先に掲げていました。途中、摂津中島の崇禅寺で首を捨てます。

幕府の評定

事件から二日後の6月26日。ようやく幕府の評定が開かれます。

「新しい将軍には、前将軍の遺児・千也茶丸(せんやちゃまる)さまを立てよう」

「異議なし」「異議なし」

義教の遺児・千也茶丸が七代将軍義勝となります。この時、わずか8歳でした。

「して、赤松討伐の件であるが…」
「うむ。その件が、大変なことだなぁ」

播磨に討伐軍を向かわせるというより、赤松が京都にいる間にさっさと討伐してしまえばよかったんですが、グズグズしたために赤松が播磨に下る時間を与えてしまったわけです。手際の悪いことでした。

赤松追討

その後も管領細川持之以下、グズグズと実りの無い評定を続けました。事件から10日経っても、まだ討伐軍の編成すら決まっていませんでした!あきれるほどの手際の悪さです。

その間、赤松満祐は播磨にあって、足利直冬の遺児義尊(よしたか)が播磨にひそんでいたのを担ぎ出して、これを京都に反抗するための旗印としました。

足利直冬は尊氏の息子ですが尊氏に嫌われ、叔父である直義の養子となっていました。一時南朝と組んで、中国や九州で勢力を誇っていたことがあります。

7月初旬。ようやく討伐軍の編成が整いました。

山名持豊は但馬・伯耆から、細川持常、赤松貞村、赤松満政は摂津から。播磨・備前、美作に侵攻する、というものでした。

総大将の山名持豊は、今回の戦いに積極的でした。山名一族と赤松一族との間には確執があったためです。もともと美作は山名一族の所領でした。それが明徳の乱で山名一族が討たれたために赤松一族に奪われました。今回、山名持豊は明徳の乱の雪辱戦とばかりに、自ら名乗り出て、赤松討伐に乗り気でした。

とはいえ山名持豊は慎重な男でした。様子見でなかなか京都を動きませんでした。「よし…そろそろよかろう」7月28日。山名持豊はようやく京都を出発し丹波・但馬に進みます。

9月1日。山名持豊は播磨書写山のふもと・坂本城に至り、細川持常の軍勢と合流して、坂本城を包囲します。3日。赤松満祐はのがれて城山(きやま)城(兵庫県たつの市)に移りますが、そこをも包囲されて、もはや逃げ場を失いました。

「おい、赤松に従っててもダメなんじゃないか」
「そうだな。先が無いな」

今まで赤松に味方していた播磨の国人たちが、次々と赤松満祐のもとを去っていきます。

「もはや、これまで…」

9月10日。幕府が総攻撃をかけると、赤松満祐は弟の義雅らとともに自害しました。嫡子教康は逃げ延びますが、伊勢で殺されました。

これら足利義教の殺害から赤松満祐討伐までの一連の事件を「嘉吉の乱」といいます。

戦後の恩賞は、山名氏に篤いものでした。赤松が持っていた三か国守護のうち、播磨は山名持豊に。備前は山名教之(のりゆき)に。美作は山名教清(のりきよ)に与えられます。

これにより明徳の乱で大きく勢力を削られた山名氏は昔日の勢いを取り戻し、以後、細川氏との対立を深めていきます。山名氏と細川氏の対立は、やがて「応仁の乱」へとつながっていくのです。

次回「嘉吉の土一揆」に続きます。

解説:左大臣光永

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