嘉吉の土一揆

嘉吉元年(1141)将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に殺害されました。幕府側は播磨に討伐軍をさしむけ、赤松一族を討伐しました。嘉吉の変です。

この事件のさなか、近江では馬借たちが不穏な動きをしていました。馬借とは馬で貨物を運ぶ運送業者のことです。

「あああーーー借金で首が回らねぇや!!」

「俺んとこもだァーー。女房はいつも俺をカス扱いだよ」

「ところで知ってるか?京都じゃ将軍さまが殺されたんだってよ」

「ええ!じゃあ将軍さまが替わるんだから、俺たちの借金を帳消しにしたっていいはずだよ」

「そういえばそうだなあ」

現代人の感覚から言うと、どういう理屈だよって感じですが、中世人の感覚として、将軍が代替わりするとそれまでのことはいったん白紙になって、すべてが新しくなる、という価値観がありました。

ついで京都清水坂で、不満の声が上がりました。

「我々は断固、徳政を要求する!!」

「幕府は徳政令を出せ!」

「そうだ!徳政令を出せ!」

ついで坂本・三井寺・鳥羽・伏見・嵯峨・加茂と、一揆は次々と飛び火していきました。「嘉吉の土一揆」です。しかも今回は、12年前の正中の土一揆と違い、各地で統制の取れた、計画的な動きをしていました。

管領細川持之は、困り果てます。

「困ったなぁ。兵はみんな播磨に行っているし。どうしたものだろう…」

そんなグズグズいっているうちに、一揆衆は京都に入るための七つの道をふさぎ、酒屋(さかや)・土倉(どそう)とよばれる高利貸しの屋敷に乱入します。

「バカでかい蔵おったてやがって!!ムカムカするんじゃ!ぶち壊してまえ!!」

わあーーーーっ

どかーーん、どかーーーん、どっかーーーん

「ひ、ひいいぃーーーっ、やめてくれぇーー」

こうして蔵を壊しては、借金証書を燃やし、略奪するのでした。東寺などの大寺社も一揆衆の標的になります。当時、大寺社は法外な利息をつけて金を貸し付ける高利貸しを兼ねていたのです。

「オラァ借用証書出さんかい!!」

「そんな無法な!!」

「どっちが無法じゃワリャ!!」

「こんクソ坊主が!!わしらの金で、ぶくぶくぶくぶく豚ンごと肥え太りやがって!!」

「ああああわああああ、ら、乱暴は、やめてください!!」

「ぐちゃぐちゃ抜かさんと出すもん出さんかい!!」

そんな感じで借用証書を出させて、燃やしてしまうのでした。もう、誰にも一揆衆を止められませんでした。

「仕方が無い。徳政令を出そう」

9月12日、幕府は徳政令を出します。蜂起から半月ばかりのことでした。

「やったーーー!俺たちの勝利だ!!」
「勝ち取ったぞ!借金は帳消しだァ!!」

一揆衆は手を取り合い、喜び涙しました。

足利義勝から足利義政へ

嘉吉の土一揆の後も、近畿を中心に各地で一揆が多発しました。幕府の権力地盤は大きくゆらいでいました。そんな中、嘉吉3年(1443年)7月、将軍足利義勝は赤痢にかかり、就任わずか8ヶ月で息を引き取ります。享年10。後任の将軍には、8歳の弟・三寅が選ばれます。八代将軍足利義政です。

次回「八代将軍 足利義政」に続きます。

解説:左大臣光永

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