桓武天皇の即位と長岡京遷都

■解説音声を一括ダウンロード
■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

なぜ遷都を決めたのか?

781年4月、光仁天皇の譲位を受けて、山辺親王が桓武天皇として即位します。
年号を延暦と改め、都を遷すことが発表されます。

「どうしてこの立派な平城京から遷都などするのです!
遷都となると、また民が苦しみます」

反発は多くありました。
なぜ平城京から都を遷すことにしたのかは、諸説あります。

桓武天皇の父光仁天皇は、久しぶりの天智系の天皇でした。

光仁天皇
【光仁天皇】

それ以前は元正天皇(げんしょうてんのう)715年即位から
称徳天皇770年崩御まで天武系の天皇が55年間続いていました。

桓武天皇としては、天武系の天皇の都である平城京を捨てて、
新しく天智系の都を築こうというお考えがあったようです。

また平城京は東大寺や興福寺など大きな寺社勢力があり、
仏教とは切っても切れない土地です。僧の中には贅沢な暮らしをむさぼり、 政治に口出ししてくる者もあったのです。

そして政治と宗教が結びつくとロクなことにならないと、
桓武天皇は実感していました。。

かつて聖武天皇の下、鎮護国家の名において、
国家財政がメチャクチャになりました。
そういうことへの反省が、桓武天皇にはあったのです。

「奈良の仏教勢力とは縁を切って、一から出直そう」

桓武天皇はそういうお気持ちでした。
そのため、いままでの遷都と違い東大寺や興福寺といった
大寺院を奈良に残したまま、遷都しています。

長岡京へ

784年、新しい都を建てる場所として山背国長岡の地が選ばれます。

平城京から長岡京へ
【平城京から長岡京へ】

長岡の地は鴨川と宇治川の合流点に位置し、
淀川を伝って難波にも出やすく水の便がとてもいい場所でした。

また渡来系の秦氏(はたうじ)が後に平安京の築かれる葛野郡(かどののこおり)を拠点としており、誘致に努力したともいいます。秦氏は桓武天皇の信任厚い藤原種継と姻戚関係にありました。

藤原種継の暗殺

藤原百川の甥の種継が長岡京の造営使に選ばれます。

「たのむぞ種継」
「ミカド、お任せくださいる必ずこの長岡の地に、
すばらしい都を築いてごらんに入れます」

藤原種継は桓武天皇の絶大な信頼を得て、長岡京造営を進めていきました。

藤原百川の甥の藤原種継
【藤原百川の甥の藤原種継】

しかし長岡京の工事は遅々として進みませんでした。
工事の人員が逃げ出したり、放火が相次ぎました。

「どうもおかしい」

785年9月23日、造営使藤原種継は長岡京の工事現場を視察していました。賊がいたら捕まえてやるぞと。そこへひょうと矢が放たれ、

ドスッ…

「うっっっ」

ドサッ…

「あっ…種継さま!種継さま!」

造営使藤原種継は何者かに矢を放たれて殺害されます。

種継を厚く信頼していた桓武天皇は、怒りにふるえます。

「おのれどこの誰が。
犯人を見つけ出し、種継の墓の前で首をはねるのじゃ」

そこで藤原氏と権力争いを続けていた大伴氏に目がつけられ、
大伴継人(おおとものつぐひと)をはじめ数十人が捕縛されます。

継人は訴えました。

「犯行はすでに亡くなった大伴家持の指示です。
家持が、桓武天皇の弟早良親王の指示を受けてやったことです」

「なに家持が。許さぬ!」

桓武天皇はすぐに家持の墓をあばかせ、その官位を停止します。
『万葉集』の編者として知られる大伴家持ですが、政治的には不遇で
死後までもこのような辱めにあいました。

ようやく家持の罪が許され従三位の位が返されたのは
21年後の大同3年(806年)のことです。

一方、桓武天皇の弟早良親王は淡路島に流されることとなりました。

早良親王は乙訓寺に幽閉されると一切の飲食を拒み、
無実を訴え続けました。そして淡路へ護送される途中、
無念のうちに亡くなったと伝えられます。

早良親王の屍はそのまま淡路に送られて埋葬されました。

早良親王の怨霊

こうして平城京から長岡京へ都遷りしましたが…

早良親王が藤原種継暗殺の罪を着せられて
死んでから、兄である桓武天皇のまわりでは
不幸が相次ぎます。

786年、桓武天皇の妻旅子が30歳の若さで亡くなり、
ついで789年母高野新笠(たかのにいがき)が病死。
翌790年には皇后乙牟漏(おとむろ)が崩御しています。

早良親王の怨霊?
【早良親王の怨霊?】

さらに皇太子の安殿親王(あてしんのう 後の平城天皇)が「風病」
一種のノイローゼに悩まされます。

伊勢神宮などで病が治るよう祈らせましたが、
いっこうに効果はありませんでした。

「これは祟りです。亡き早良親王の祟りです」
「なに親王が…」

桓武天皇はつくづく後悔されました。
(弟よ、そちは無実だったのだな。我は何という
取り返しのつかないことをしてしまったのだ…)

桓武天皇は淡路島に寺を建てて弟早良親王の霊を慰めます。

そして怨霊の恨み渦巻く不浄の都・長岡京を捨て
新たに平安京を都と定めます。
時に794年。ナクヨウグイス平安京。
鳴くよ鶯平安京…学校でそう習ったことと思います。

長岡京から平安京へ
【長岡京から平安京へ】

平安京
【平安京】

以後400年あまり…
源頼朝が全国に守護・地頭を設置するまで400年あまり、
「平安時代」と呼ばれる時代が続くことになります。

-->

≫次の章「平安京遷都」

解説:左大臣光永

■解説音声を一括ダウンロードする
■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル