一休宗純の生涯(四)狂雲子一休

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こんにちは。左大臣光永です。

先日、ひさしぶりに京都駅から近鉄線に乗ったら、東寺の塔がよく見えて、気分よかったです。地上から見上げると、まわりにビルが多くて、視界がざわざわしますが、近鉄線は高架線を走っているので、東寺の塔が周囲のビル郡を圧倒してドカーンとそびえ、さらに、西の方に横たわる丹波の山々を背景に、東寺の塔がいよいよ引き立って、すばらしいと思いました。

本日は「一休宗純の生涯」の第四回目「狂雲子一休」です。

前回は一休が華叟宗曇(かそうそうどん)のもとに弟子入りし、悟りを開くまで語りました。

悟りを開いた一休に、師の華叟宗曇は「一休」の号を授け、一休は、

有漏地(うろぢ)より無漏地(むろぢ)へ帰る一休み雨ふらば降れ風ふかば吹け

と詠みました。

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前回まで
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一休像(京都府京田辺市酬恩庵)
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風狂のはじまり

大悟(だいご)を得た後の一休はスコーンと突き抜けたようで、いわゆる「風狂」の行いが多くなります。

大悟…迷いから解き放たれ真理を得ること。

風狂…世間の常識に反した、きちがいじみた振る舞い。

応永29年(1422)10月9日、華叟宗曇は弟子たちをつれて京にのぼり、大徳寺の塔頭如意庵(にょいあん)に参じました。華叟の師である言外宗忠(ごんがいそうちゅう)の三十三回忌に参列するためでした。

29歳の一休もつきそいました。僧侶たちは皆、綺羅をつくして参列していました。そんな中、一休はヨレヨレの墨染の衣をまとい、かかとの擦り切れた草履をはいて、なんともみすぼらしい格好でした。

「一休、お前なんだその格好は」

「私は一人で皆の引き立て役をつとめているのです。ニセ坊主のマネごとなどごめんこうむりたい」

そう言って一休は法会の間じゅう、みすぼらしい格好で通しました。

法会の後、一派の重鎮・日照宗光(にっしょうそうこう)が華叟を訪ねてきて、

「お弟子さんたちの中であなたを継ぐ者がありますか」

華叟は答えて、

風狂と道(い)ふと雖も、箇(こ)の純子あり。

『東海一休和尚年譜』

「風狂ではありますが、一休宗純がいます」

正長元年(1428)6月、華叟はここ数年、腰痛で立つこともままならない状態でしたが、近江国塩津(しおつ)の高源院でついに没しました。華叟77歳。一休35歳の時でした。

前の師匠・謙翁宗為が没した時は茫然自失となり入水自殺まではかった一休でしたが、さすがに大悟を得た後だけあって、今回は取り乱すこともありませんでした。

ついで一休40歳の永享5年(1433)10月、父君の後小松法皇が崩御しました。それ以前に、一休は後小松法皇から拝謁を許されています。しみじみと父子の語らいをしたのでしょうか…。一休の母も時期は不明ながら、この前後あたりで亡くなったと思われます。

恩愛の紅塵(こうじん)、誰人(たれ)か掃かん、娘生(じょうしょう)の赤肉(しゃくにく)、父子の道。

『狂雲集』313

(母の恩愛という塵を、誰が払えようか。母が赤子として生んでくれたこの体、父と子の道。ありがたいことだ)

堺へ

永享4年(1432)39歳の一休宗純は南江宗沅(なんこうそうげん)とともに堺の地に遊びました。南江宗沅は漢詩文をよくする人物で、風流方面での一休の友人でした。

当時、堺は遣明船の発着港であり、貿易港として賑わっていました。同時に宗教都市でもあり、五山派、林下禅、念仏、法華などさまざまな宗派が布教活動にいそしんでいました。

一休は記録にあるだけでも計5回、訪れていますが、遊ぶためではありませんでした。

堺では大徳寺派に属する兄弟子の養叟(ようそう)が、日に日に勢をのばしていてたのです。師の華叟が亡くなってまだ日も浅いというのに、ハデに布教活動をやっている。一休は兄弟子養叟のやり方に反発を抱いていました。

朱鞘の大太刀

永享7年(1435)、42歳の一休はふたたび堺を訪れました。

「なんだありゃあ!」

堺の民衆は一休の格好を見て呆れました。腰に長い朱鞘の太刀を帯びていたのです。坊主が刀を帯びている。それだけでも奇抜なのに、しかも長い、朱鞘の太刀です。

わけをきかれて、一休は太刀を鞘から引き抜きました。

アッ!と見ると、木太刀でした。

「いまどきの坊主はこのようなものだ。外見はいかにも斬れそうだが、中身がこれでは斬れるはずがない。人が斬れぬものにどうして人を活かすことができようか。ニセ坊主への戒めとして、拙僧はいつもこのニセ太刀を持ち歩いているのである」

大徳寺真珠庵と京都府京田辺市の酬恩庵には、傍らに朱鞘の大太刀を置き、曲彔(きょくろく=椅子)に座った一休の像が伝わっています。

一休の不満

一休の、仏教界への不満は高まっていきました。

永享12年(1440)6月20日、47歳の一休は大徳寺塔頭・如意庵(にょいあん)の住寺となりました。27日、如意庵では華叟宗曇の十三回忌法会が開かれ、一休は如意庵にて心をこめた法要をしみじみと行いました。

ところが同じ大徳寺境内の大用庵(だいゆうあん)では、華叟の弟子・養叟が中心となって、盛大な法要が行われました。養叟は堺の金持ち町衆を多く檀家につけていたので、そういう人たちが集まり、きらびやかでした。大用庵での法要が終わると、一休の如意庵のほうにも顔を出し、ザワザワと騒がしかったです。

「この空気はダメだ。俺には向いてない」

そう考えた一休は、翌々日の29日、兄弟子の養叟に偈をしめし、大徳寺を後にしました。つまり辞表を提出して、住職をやめたのです。その時の偈は「如意庵退院、養叟和尚に寄す」というもので、

住庵十日意忙々、
脚下紅糸線甚長、
他日君来如問我、
魚行酒肆又婬坊。

住庵十日、意忙々、
脚下の紅糸 線甚(はなは)だ長し、
他日、君来りてもし我を問わば、
魚行、酒肆(しゅし)、また婬坊(いんぼう)。

如意庵に住んで10日間というもの、とても慌ただしかった。
拙僧はまだまだ修行不足で未熟だ。
後日、君が私を訪ねることがあれば、
魚屋か、居酒屋か、女郎屋に入り浸っているだろう。

脚下紅糸線甚長…赤ん坊の時は足の裏に紅い血管が見えているが、成長すると皮が厚くなって見えなくなる。そこから、まだまだ修行が未熟であること。

魚行…魚屋。酒肆…酒屋。婬坊…売春宿。

僧侶として守るべき戒…不殺生戒(ふせっしょうかい)・不飲酒戒(ふおんじゅかい)・不邪婬戒(ふじゃいんかい)に、俺はそむくぞと、堂々と宣言しているのです!

婬坊通い

一休が養叟につきつけた偈は、自分の破戒僧ぶりをわざと大げさにしめし、養叟の偽善者ぶりを暴き立てたものでしょう。しかし一休が魚を喰らい、酒を飲み、「婬坊」…女郎屋に通っていたのは事実のようです。

美人雲雨愛河深
楼子老禅楼上吟
我有抱持啑吻興
竟無火聚捨身心

美人の雲雨(うんう) 愛河(あいが)深し
楼子(ろうし)の老禅(ろうぜん)楼上の吟
我に抱持啑吻(ほうじそうふん)の興あり
竟(つい)に火聚捨身(かしゅうしゃしん)の心無し

美人との情事は愛が深い河のように素晴らしかった。
私はうっとりして楼上で思わず詩を吟じた
私には抱擁と接吻の楽しみがあるのだ。
火中に身を投じるような、命がけの修行心なんか、ふっとんじまったよ。

なんという破戒僧だ!坊主が平然と悪所通いをするなんて!そんな世間の批判を吹き飛ばすように一休は、むきだしの悪は、偽善より美しいとばかりに、

嘘をつき地獄へおつるものならばなきことつくる釈迦いかにせん
(嘘をついて地獄に堕ちるというなら、嘘ばかり並べ立てた釈迦はどうなるのだろうか)

この世にて慈悲も悪事もせぬ人はさぞやゑんまもこまりたまはん
(この世で慈悲の行いも悪事もしない人は、閻魔もさぞ困るだろう。人間生きていれば、慈悲の行いもするし、悪事もするものだ)

次回「一休宗純の生涯(五) 兄弟子との対立」に続きます。

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解説:左大臣光永

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