平安京遷都(二)千年の都

遷都

794年(延暦13年)10月22日。

桓武天皇は皇太子安殿親王以下百官を引き連れて、
怨霊の穢れ渦巻く不浄の都・長岡京を後にし、
新しい都たる葛野郡宇陀村に入ります。

「おお…山も川も美しい」

思わず息を飲む桓武天皇に、和気清麻呂が申し上げます。

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「それで、いかがなさいますか新都の名は?
藤原京や平城京の先例にならえば、さしずめ
葛野京、もしくは宇陀京といったところですが」

「いや、わしには考えがある。
もう怨霊に悩まされるのはこりごりじゃ。
百年先、千年先も怨霊におびやかされず、平安に暮らせるよう、
この都を、平安京と名付けよう」

桓武天皇の怨霊に対する恐れが、
以後1000年以上にわたって王宮が置かれた
平安京の繁栄の基となったことは、
歴史の皮肉というか、なんとも面白いことではあります。

平安京の造営

平安京は、唐の都長安をモデルに都作りが進められました。
また、近い過去に長岡京の建設を経験したことであり、
その経験はそのまま平安京の造営に活かされました。

平安京の置かれた葛野の地は東に鴨川、
西に桂川に挟まれ、鳥羽のあたりで
鴨川と桂川が合流し、淀川に流れ込みます。

平安京
平安京

ただし当初鴨川は現在の位置より大きく西・
堀川のあたりを流れていました。それを平安京建設にあたって
ずっと東の、現在の鴨川の位置に移しました。

鴨川と桂川にはさまれた盆地に、
南北三十八町(5.3キロ)、東西三十二町(4.5キロ)の都が造営されました。
平城京より、南北に長い都です。

唐の都長安に習い、整然と碁盤の目状に区画されました。

淀川を通じて、瀬戸内海にも出やすく、水運のよい地です。

平安京の南の入り口となるのが羅城門です。

平安京
平安京

今、こころみに皆様と平安京遷都直後の羅城門をくぐってみましょう。

すると、道幅85メートルの朱雀大路がはるか
3.7キロ先の朱雀門まで続いています。

朱雀大路の両側には柳が立ち並び、その浅緑が
目にまぶしく飛び込んできます。

左右を見ると、まだ建設中の館が多いですが、
日々人が増え、活気が高まっています。

この朱雀大路を中心に東を 左京、西を右京といいます。
朱雀大路の両側には東寺・西寺が建てられ、
それぞれに五重塔が建てられました。

西寺はすぐに廃れてしまいますが、
東寺は繁栄を続け、嵯峨天皇により弘法大師空海に与えられ、
現在も五重塔が京都の町のシンボルとなっているのは、
ご存知の通りです。

都の東には東市、西には西市が、それぞれ月の前半・後半に
開かれ、さかんに物の売り買いが行われました。

朱雀大路を北へ北へ進みます。はるかに見えてくるのが、
大内裏の入り口・朱雀門です。しかし朱雀門をくぐる前に、
大内裏を隔てて二条大路の南側を御覧ください。

神泉苑
神泉苑

神泉苑です。

桓武天皇によって造営された、天皇家禁制の庭園(禁苑)です。

もともとこの地にあった湧き水に手を加えて池とし、
その池を中心に南北500メートル、東西240メートル。
3万坪の広さがありました。

1603年(慶長8年)徳川家康によって二条城が築かれた際に縮小され、
現在に到ります。

さて再び朱雀門の前に立ち返ります。

大内裏は平安京の北方やや西よりに位置し、
南北1.4キロ、東西1.2キロの領域です。四方にそれぞれ三つずつ、
計十二の門が取り囲んでいました。

朱雀門をくぐり、さらに正面の応天門をくぐると、
役人たちが儀式を行う朝堂院(ちょうどういん)、
その西には饗応、宴会などを行う豊楽院(ぶらくいん)、
それらを取り巻いて、太政官院はじめさまざまな役所がありました。

朝堂院の奥には天皇が儀式を行う大極殿。

大内裏中央ほぼ東よりの位置に天皇が
すまわれる内裏がありました。

大内裏
大内裏

平安京の都市機能は10年かけて、
少しずつ整えられていきました。

勘解由使(かげゆし)

桓武天皇は平安京の都づくりを進める一方、政治改革をおし進めます。

この頃、不正を働く国司が多くありました。国司とは中央の貴族が朝廷に任じられて地方に赴任する者です。その任期は6年でした。

国司の中には強力な権力をかさに着て不正を働く者がありました。政府の米を法外な利息をつけて貸し出して私腹をこやしたり、領民を勝手に使役する者もありました。

まったく国司というやつは、ロクでもない。ああ憎たらしい俺たちが汗水たらして働いてるのに国司はぶらぶらして、いい暮らししやがって!

領民は国司を憎み嫌います。しかし逆らうこともできず、国司の専横に対しては泣き寝入りするほか、ありませんでした。事態をみかねた桓武天皇がおっしゃいます。

「これでは朝廷の信用そのものの、失墜となる。
国司の不正をやめさせるのだ」

国司の不正がもっとも表面だって現れる場面が、国司の引継ぎです。

国司の引継ぎをする際、新しく赴任した国司から前の国司に、引継ぎの書類を渡していました。これを解由状(げゆじょう)といいます。しかし、解由状の引渡しは、スムーズに運ばないことが多くありました。

それは、前の国司がいろいろと不正を行ってるので、帳簿のつじつまがあわないため、事務手続きに何日もかかったためです。

そこで桓武天皇は、新任者から一定期間解由状をもらえない者は任期中に不正を働いたとみなして禄を採り上げると決定します。ちゃんと見ているぞ。不正はできないぞ、というわけです。

「これでは、うまい汁が吸えなくなる」
「とほほ…国司になるうまみがなくなってしまった」

そして解由状の引渡しを監督する、勘解由使(かげゆし)という役所を創設しました。ただし、勘解由使が国司の不正を減らすにどれほど役に立ったかは、わかりません。おそらく、期待したほどは機能しなかったんじゃないでしょうか…。

≫次の章「アテルイと坂上田村麻呂(一)巣伏(すぶし)の戦い」

解説:左大臣光永

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