アテルイと坂上田村麻呂(一)巣伏(すぶし)の戦い

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こんにちは。左大臣光永です。
ぱあっと桜が咲いたと思ったら、
今日は小雨ふりしきる一日となりました。
このせいで散ってしまわなければいいんですが。
お住まいの地域ではいかがでしょうか?

さて本日は「アテルイと坂上田村麻呂(一)巣伏(すぶし)の戦い」です。

平安時代初期のアテルイと坂上田村麻呂の東北での戦いは、
長年にわたって人々のロマンをかきたて、
さまざまな創作物語が作られてきました。

しかし歴史書に書かれていることはきわめて少なく、
『日本後紀』と『日本紀略』に、わずかに記事が見えるのみです。

蝦夷征伐問題

東北地方をめぐっては、古くから
朝廷と蝦夷(えぞ)との間で争いが続いていました。

桓武天皇の父である光仁天皇の時代には
伊治公呰麻呂(いじのきみ あざまろ)が反乱を起こし、
按察使兼鎮守府副将軍の紀広純(きのひろずみ)を殺害。

朝廷の蝦夷攻略の拠点である
多賀城に攻め寄せるという事件が起きていました。

この時、光仁天皇は藤原継縄(つぐなわ)を、
次に藤原小黒麻呂(おぐろまろ)を
持節征東大使として東北へ派遣。

しかしいずれも強力な敵に翻弄され、
さっぱり戦果が上がりませんでした。

「こんなに負け戦が続くのは、
吾が人徳の至らぬせいだ。もう吾はダメだ」

「陛下、しっかりなさってください」

「もう隠居する。あとは皇太子に頑張ってもらうから、
よろしく」

光仁天皇はこの年73歳。
蝦夷征伐がうまくいかないことから
心身ともに不安定となり、皇太子山部親王に位を譲ります。

こうして天応(てんおう)元年(781年)
即位したのが、50代桓武天皇です。この年45歳。

「はてさて父上も、大変な時期に丸投げしてくれたものだ。
どこから手をつけたものだろう」

藤原小黒麻呂の報告からすると、
陸奥・出羽両国の臣民はうち続く戦乱で疲弊しきっていました。

とてもこのまま戦を続けられる状況ではありませんでした。

そこで桓武天皇は、陸奥国奥郡・出羽国雄勝(おかち)郡・
平鹿(ひらか)郡への三年間の免税を布告。

ついで中納言大伴家持を陸奥按察使(あぜち)鎮守府将軍に任命。
数年先を見据えて蝦夷攻略の準備を進めていきます。

これが桓武天皇即位2年目の延暦元年(782年)の状況でした。

桓武朝はそのスタートの時点から、
蝦夷との対決を強く宿命づけられていたわけです。

動員令

延暦7年(788)2月。政府は東海・東山・坂東の諸国に動員命令を下します。

「いよいよ蝦夷を攻めるのだ。動員予定数は5万2千8百人。
翌年の三月までに、全兵力を多賀城に集結させよ」

がぜん、いきり立つ桓武天皇。

すでに大伴家持は世になく、
しかも長岡京造営使・藤原種継殺害事件の嫌疑をかけられ、
故人でありながら罰として官位をはく奪されていました。

そこで紀古佐美(きのこさみ)を征東大使に、
多治比浜成(たじひのはまなり)・紀真人(きのまひと)・
佐伯葛城(さえきのかつらぎ)・入間広成(いるまのひろなり)の
四人を征東副使に任じます。

翌延暦八年(789年)3月9日。

多賀城には5万2千8百人の大軍が終結していました。
征東大使・紀古佐美(きのこさみ)が宣言します。

「これより胆沢城(いざわじょう)をめざし、
出発する」

胆沢は北上川中流域をしめる広大な盆地です。
開墾しやすい肥沃な大地であり、
森では獣が、川では魚が、豊富にとれました。

しかも朝廷の蝦夷征伐の拠点である多賀城から遠く離れ、
その支配をまぬがれていました。朝廷にとっては、
どうしても潰しておきたい拠点でした。

巣伏(すぶし)の戦い

多賀城を出発した軍勢は、一関を越え、平泉を越え、
3月28日衣川に至ります。

「北上川の東一帯には、敵の大部隊がひそんでいる模様です。
いかがなさいますか」

「うむ。うかつには動けん。まずはしっかりと敵情を把握しなければ」

そこで朝廷軍は1ケ月ほど衣川に過ごし、敵情をさぐります。
シビレを切らした朝廷から、催促の使者が届きました。

「一刻も早く蝦夷を殲滅せよ。
できぬのなら、せめて現状の報告をせよと、
陛下の仰せです」

「はっ、それは、今から、やろうと思っていたところです」

やむを得ず、紀古佐美は北上川を渡ることにしました。

全軍を三手に分け、それぞれから精鋭2000名を出し、
計6000名が三地点から北上川を渡ります。

そのうち第一陣は敵にはばまれてしまいましたが、
第二陣、第三陣は北上川対岸に無事渡り切り、

ドカドカドカーーと
蝦夷の軍勢の中に駆けこんでいきます。

「ひ、ひいいーーーっ」

蝦夷の軍勢は大慌てで逃げていきます。

「なんだ。案外余裕じゃないか。
敵は弱いぞ。一気に潰せ!!」

ヒュン、ヒュンヒュン、ごおっ、ぼおーー

村々に火をかけながら、逃げていく敵を追いかけ、
巣伏村(すぶしむら。現在の奥州市水沢区)に至ります。

その時、

わあっっ

突如、側面の山影から時の声が起こり、
馬に乗った蝦夷の大軍が姿を現しました。

「うわっ、なんだ、」
「はかられたかっ」
「退却。退却」

退却といっても後ろは満々と水をたたえた北上川です。
朝廷軍は蝦夷の軍勢に責め立てられ、
北上川に追い込ました。

「射殺せ」

ヒュン、ヒュンヒュン!

「うわあっぷ」

死者25人。敵に矢に当たった者245人。
溺死した者1036人。

武器・鎧をかなぐり捨てて逃げ帰った者1257人。

「してやられた。敵はわざと退き、
われらを懐に誘ったのだ!やりおる。
いったいどんな大将なのだ…」

その頃蝦夷の陣営では、わああーーーっと全軍勝どきを上げていました。
最前線にさっそうと馬にまたがった筋骨隆々たる、その人物こそ、

大墓公阿弖流為(たものきみ・アテルイ)です。

次回「アテルイと坂上田村麻呂(二)第二次・第三次征討」に続きます。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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