平清盛の死と木曾義仲の挙兵

平清盛の死

治承五年(1181年)閏二月、平清盛死去の知らせが鎌倉にとどきます。

頼朝は声を上げて喜び、「私は後白河院に対する反逆の意図はまったく無い。むしろ院にそむく者を討伐しようとする者だ。清盛こそ院にそむいたので滅ぼされたのだ」と叫んだと伝えられます。

朝廷では1181年に治承から養和、さらに1182年に寿永と元号があらたまっていましたが、頼朝は公式文書の中でもあいかわらず治承を使い続けました。これは、平清盛によって立てられた安徳天皇の政権を、頼朝が認めていなかったこと。安徳天皇の政権を認めない以仁王の令旨を以仁王没後も旗印にしていたことを示しています。

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木曾義仲の挙兵

打倒平家に立ち上がったのは頼朝だけではありませんでした。信濃では木曾義仲が、甲斐では武田信義が、四国では河野通信が、それぞれ挙兵していました。これらは別々に挙兵したもので、連携はありませんでした。バラパラに、それぞれ挙兵したのです。

その中で勢い盛んだったのが信濃の木曾義仲です。木曾義仲は義朝の弟義賢の次男で、1154年の生まれ。頼朝には従兄弟にあたります。従兄弟どうしといっても、頼朝と義仲の関係は険悪でした。

そもそも義仲の父義賢は所領争いから頼朝の兄義平に殺されています。1155年大蔵合戦です。この事件でわずか2歳でみなしごになった義仲は斉藤実盛の手引きで信濃へ逃れ、乳母夫の中原兼遠に養育されます。

以仁王の令旨を受けて頼朝とほぼ同時期に挙兵した義仲は、まず父義賢の根拠地であった上野へ進出します。父の代からの味方を集めようということだったようです。

しかし、関東には頼朝がすでに勢力をはっており、頼朝との対立を避けた義仲はすぐに信濃へ戻ります。その後、平家の命を受けた越後の城四郎長茂が南下してくると横田河原の合戦にこれを撃破。

勝ちの勢いに乗り、越後まで進出。さらに加賀と越中の境倶利伽羅峠で平家軍七万を破り、破竹の勢いで越中、越前、近江と進撃し、寿永二年(1183年)7月28日、京都に入ります。

平家一門は木曾義仲の軍勢が比叡山東坂本まで迫ると、6歳の安徳天皇と皇位継承の証である三種の神器を擁して西国へ落ち延びていきました。

堂々都入りを果した木曾義仲。その一方で源頼朝は沈黙を守っていました。しかし後白河法皇が篤く遇したのは意外にも頼朝のほうでした。

義仲入京後、7月30日に行われた論功行賞では平家を追い落とした第一の功績は頼朝にある。義仲は二番目、行家は三番扱いでした。なんということだ、義仲は地団太を踏んで悔しがったことでしょう。

さらに義仲軍は都で不評を買います。義仲の部下が京都周辺で乱暴狼藉を働いたこと、…もっともこれは反義仲派の公卿による捏造ともいわれますが、より決定的なことには、
義仲が次期天皇の人事に口を出したことです。平家一門が西国へ連れ去った安徳天皇にかわって、早急に新しい天皇を決める必要がありました。

この時後白河法皇は亡き高倉天皇の第四皇子を推しますが、義仲が口出しして、亡き以仁王の遺児北陸宮を次の天皇に推します。

一介の武士にすぎぬ者が天皇の人事に口出しするとは何事だ。けしからんと後白河法皇は大いにお怒りになります。

一方で頼朝はたくみな根回しで評価を上げていきます。

頼朝は、鎌倉に下向してきた院の使者たちにいいます。投降してきた平家の郎党には寛大な処置をしてください。貴族や大寺社の荘園を復興してくださいと。

その内容ももちろんのこと、頼朝の優雅で洗練されたふるまいに、院の使者たちは関心しました。九条兼実は、その日記「玉葉」の中で「およそ頼朝の体たらく、威勢厳粛、その性強烈、成敗分明、理非断決」と書いています。

使者を通して後白河法皇に頼朝のことは伝わり、後白河法皇はますます義仲よりも頼朝と思うようになっていきます。

つづき 十月宣旨と木曾義仲の滅亡

解説:左大臣光永

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