十月宣旨と木曾義仲の滅亡

寿永二年 十月宣旨

寿永2年(1183年)6月、

後白河法皇は義仲をやっかいばらいしようと、西国で巻き返しをはかっていた平家の討伐に向かわせます。そのすきに鎌倉の頼朝に使いを立て、伊豆配流前の従五位下(じゅごいのげ)の位に戻しました。平治の乱で敗れて官位を剥奪されてから23年ぶりの官位復活でした。

寿永2年(1183年)10月14日。

朝廷から頼朝に宣旨が下されます。その内容は、

●東海道・東山道・北陸道における荘園と国衙領の支配を、旧来のものに戻す
●これに従わない者の追討を頼朝に命ず

というものでした。寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)です。

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これは、頼朝が東国における軍事警察権を握ることを朝廷が実質認めたことでした。内乱の中で築き上げられてきた「鎌倉殿」の権威が、ついに朝廷からも認められたのでした。

頼朝は…本来なら大喜びして京都に挨拶にうかがうところですが、鎌倉を動きませんでした。鎌倉は鎌倉。京都とは別の路線をたどる。頼朝は武士が朝廷に接近することの危険を察知していました。平家一門は武家でありながら朝廷と近づきすぎ、貴族化していったがゆえに没落したのでした。

平家の二の舞にはならぬと、頼朝は京都と距離を置きます。鎌倉を基盤として武家の都を建設していきます。

頼朝の支配地域として東海道・東山道に加え、北陸道を認めたことが、義仲の怒りを買いました。北陸道は義仲たちが戦いぬいて獲得してきたのでした。これを頼朝に与える。義仲からすれば、認められるわけは、ありませんでした。

義仲はしきりに院に抗議し、北陸道を頼朝の支配地域からはずさせます。

法住寺合戦から義仲の滅亡

しかし義仲の怒りはおさまりませんでした。おのれ法皇。俺のいない隙に、頼朝と結びやがって。これ以上好きにさせるかと、

寿永二年(1183年)11月19日、義仲は後白河法皇の御所・法住寺殿を襲撃し、軍事クーデターを起こします。後白河法皇は幽閉され、義仲の天下となりました。

後白河法皇はひそかに鎌倉の源頼朝に救援要請をします。

それ法皇さまをお救いしろと、頼朝はこれに先駆けて宣旨の執行のために伊賀・伊勢に弟の義経を派遣していましたが、これをからめ手の大将軍とし、

さらに鎌倉からはもう一人の弟範頼を大手の大将軍とし、大手・からめ手両方から京都をめざして出撃させます。旗揚げ以来の忠臣・上総広常は、この時出兵に反対したために頼朝によって粛清されています。

範頼軍と義経軍はいったん尾張で合流すると、範頼軍は瀬田方面から、義経軍は宇治方面から、京都を囲い込むように進撃します。

義仲はこれを迎え撃つべく、瀬田方面には乳母子の今井四郎兼平を、宇治方面には根井行親・楯親忠らを差し向けますが、いずれも破られ、義仲は琵琶湖のほとり粟津が原にて討ち死にしました。

つづき 平家滅亡

解説:左大臣光永

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