大仏建立

こんにちは。左大臣光永です。秋もようよう深まる土曜日、いかがお過ごしでしょうか?

私は本日、夕暮れ時の江古田商店街をぶらぶら歩いてきました。商店街の雑踏が、いい風情でした。ぼくお使い~?えらいね~など、八百屋の軒先から聞こえる会話。居酒屋から表に漏れるにぎやかな笑い声。浅間神社の暗闇の中からジャランジャランジャランと響く鈴の音が、ああこの時間にも参拝している人がいるなァとしのばれ、秋の夕暮れの風情。ここに極まるという感じでした。

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「大仏建立」です。

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奈良の大仏
奈良の大仏

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大仏建立の詔

743年(天平15年)10月15日、聖武天皇は近江の紫香楽宮にて盧舎那仏造営の詔を発します。

「国中の銅を尽くして尊像を造り、大きな山の木をみな切って仏殿を構えるのだ。一枝の草、一にぎりの土ほどのわずかな物でも、造営のために寄進したいという者があれば、無条件でそれを許せ。また、役人たちはこの事業のために、人民を徴発したり、増税したりしてはならぬ」

僧・行基は聖武天皇のたっての願いにより、弟子や民衆を動員して大仏造営に協力しました。行基は民衆に辻説法を行い、どちらかといえば反体制的な立場でした。しかし、行基は民衆を率いて土木工事などに従事させ、民衆からの信奉あついものがありました。それを見て政府は、弾圧するよりも取り込んだほうがよいと判断したのでした。

聖武天皇はなぜ大仏を作ろうとしたか?

「奈良の大仏」として知られる東大寺の廬舎那仏像。修学旅行で訪れたという方も多いと思います。

そもそも聖武天皇は、なぜ、大仏を造ろうとしたのでしょうか?

聖武天皇の時代には、さまざまな社会不安が続きました。737年天然痘の流行で、当時権力の座にあった藤原四兄弟がすべて死に絶え、740年には九州で藤原広嗣が反乱を起こしました。

飢饉や干ばつ、地震。四度の都遷しもうまく行かず、ふたたび平城京へ戻ってくるというありさまでした。都には浮浪者や貧困農民があふれました。

「なんとかならんか」
「あなた、御仏のお力にすがりましょう」

光明皇后は熱心な仏教徒でした。仏教の力で国を救う…鎮護国家の考えを聖武天皇に強くすすめます。

大仏造営

翌744年11月、紫香楽宮の甲賀寺(滋賀県甲賀市)にて大仏の骨柱を立てる所まで工事が進みました。しかし山火事が相次ぎ(反対派の妨害工作?)、紫香楽での造営はあきらめざるを得ませんでした。

その後、都が平城京に戻り、あらたに平城京左京の東の郊外、現在の位置に大仏を造営することになりました。

まず大仏の背骨にあたる骨柱のまわりを縦横に木枠で覆います。これに目の粗い砂から目の細かい砂まで粘土砂を塗りつけて、大仏の原型となる塑像(そぞう)を作ります。

大仏建立
大仏建立

次にこの原型のまわりに外型を作ります。前とは逆に目の細かい砂から目の粗い砂へ順に粘土砂を塗り付けていきます。その厚さは4、50センチくらいです。この段階で、大仏は全体に外型をまとい、本来の大きさより一回り大きく見えていたはずです。

外型は数日間乾燥した後、分割して原型から外し、高温で熱してレンガ色になるまで熱します。

そして原型のほうは全面を5-6センチ削り取ります。この厚さが大仏の肉厚となります。原型からこの肉厚ぶん浮かして、外型を設置して、できた隙間に銅を流し込むわけです。

大仏建立
大仏建立

この時、原型と外型が接触しないように、型持(かたもち)という金具をさしこみます。型持は後に銅を流し込むと溶けて銅と一体化してしまうので問題無しです。これで準備は整いました。

次に外型で覆われた大仏のまわりを低く土手で覆います。土手の上に溶解炉を置き、銅や鉛を溶かします。ソレッの掛け声とともにグツグツ沸騰した銅や鉛を流すと、それは、外型と原型の間の細い切れ目にスーーッと流れ込んでいきます。

大仏建立
大仏建立

この銅が凝固するまで待って、最初の土手の上にさらに次の土手を築き、第二回の鋳込みにかかります。以下、順番に第二、第三の土手が築かれ…第八の土手に至って大仏が完全に土手で覆われました。天平19年(747)に大仏本体の鋳込みが開始されてから、天平勝宝元年(749)まで、実に三年の歳月が流れていました。

「そろそろいいだろう」

山のようにそびえる土手を多数の人夫が切り崩していくと、

「うおっ…!!」

土手の中から、荘厳な毘盧遮那仏のご尊顔があらわれました。

「おおーーーーっ!!」

技術者も、労働者も、いっせいに歓声を上げたことでしょう。やった!やった!ワシラの仕事はムダではなかった。飛び上がって、抱き合って喜んだかもしれません。

金の産出

こうして大仏の原型はできましたが、聖武天皇には心配がありました。大仏に塗る金が不足していたのです。しかしこれも、思わぬ方向から救いがありました。

陸奥で、金が産出したのです。知らせを受けて聖武天皇はほっと安堵するとともに

「ああ…感謝します!」

すぐさま光明皇后・皇太子阿倍内親王を伴い、建造中の大仏殿に赴き、感謝の宣命をささげさせました。また百官に官位がふるまわれました。

この頃、大伴家持は越中守として越中に赴任していましたが、金の産出によって従五位上に一段昇進しました。『万葉集』に、大伴家持が金の産出を祝った歌が残っています。

天皇(すめろぎ)の 御代(みよ)栄えむと 東(あずま)なる
陸奥(みちのく)山に 黄金花咲く
(『万葉集』18巻 4097)

塗金

さて本体鋳造が終わった後は、塗金の作業にとりかかります。その下準備として、表面処理を行います。これがまた大変な作業です。

銅が流れ込まなかった部分や、亀裂が走った部分を細かくチェックし、補修していきます。やすりや鏨(たがね)で表面を削り、滑らかにしていきます。8段に分けて鋳込んだので、その継ぎ目をならす作業も必要でした。さらに塗金のための地ならしとして、砥石で磨いた上を木炭で磨きました。

螺髪(らはつ)の鋳造もこれと並行して行われます。螺髪とは大仏の頭に載っている、パンチパーマのようなくるくるっとしたやつです。奈良の大仏には492個あります。鎌倉の大仏は螺髪も本体と一体化して鋳造されていますが、奈良の大仏は螺髪は別パーツとして制作され、後から埋め込んでいきました。この作業にも一年半ほどかかりました。

こうして表面処理を終えると、金が塗られていきます。

大仏開眼供養

駆り出された述べ人数260万人。当時の人口は600万人程度と推定されるので、人口の半数近くが駆り出された計算です。銅450トンを使い、大仏と大仏殿をあわせた造営費は数千億円にのぼりました。

国家予算が潤沢に余っているならまだしも、餓死者や浮浪者があふれている中、こういうことが行なわれたのです。ずいぶん、大変な話です。

752年4月9日、大仏開眼供養の儀式が開かれます。743年に発願してから9年目のことでした。すでに娘の孝謙天皇に位を譲っていた聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇以下、高位高官が並び、華やかな儀式でした。

インドの僧菩提僊那(ぼだいせんな)が、大きな筆を持って足場に登ります。筆の緒を、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇が握られます。

そこで菩提僊那が一声、

「でやーーっ!!」

最後の仕上げとして、大仏に目玉を描き入れると、

ワーーーッ パチパチパチパチ

大仏殿からは、一せいに拍手と歓声が上がります。インドや中国から1000人の僧侶が招かれ、集まった人の数は一万人を越えました。

儀式の後は晴れやか音楽とともに、インドや中国の踊りが披露されます。その賑わいは東大寺の外までも響き渡ります。しかし、大仏建立の一番の功労者である庶民は、当然ながらこの式典には一人も招かれませんでした。

結果

聖武天皇による大仏建立。歴史的評価としては賛否両論あって、一概に「いい」とも「悪い」とも言えませんが…少なくとも、この時代(聖武天皇の生きた時代)に限ってだけ言えば、完全な失敗でした。

いいことは、何一つありませんでした。

ただでさえ傾いていた財政基盤はガタガタになり、庶民の暮らしは大打撃を受けました。平城京内に餓死者があふれました。

水銀を蒸発させて金メッキを定着させるので、多くの人が水銀を吸い込みました。水銀は有毒物質なので、水銀中毒になって亡くなった人も多かったと思われます。

後に橘奈良麻呂は、クーデターが未然に発覚し取り調べを受けた際(757年)、言いました。「東大寺の造営で民が苦しんでいる。政治が悪いから正そうとしたのだ」と。

奈良麻呂の言葉からも、聖武天皇の事業は当時から無謀と見られていたということがわかります。

二度の焼失

その後、東大寺の大仏は二度焼失しています。一度目は治承4年(1180年)平重衡によって。二度目は永禄10年(1567年)松永久秀によって焼き討ちにされました。

しかしいずれの時も復興を遂げ、現在に至っています。

私は平成25年の大晦日に、東大寺を訪れました。その時、三条通りに暴走族のような、髪を染めて、でれーーんとした恰好をした、いかにもヤバそうな連中が5-6人でたむろしていたので、おいおい騒ぎ起こすなよと思いつつ、

ちょっと面白くもあり、ずっと後をついていきました。東大寺に入り、鏡池を右に見ながら進み、大仏殿に入りました。ドーーンとそびえる大仏さま。そこで彼らは、「おっしゃ、やるか」

パンパン。

「大仏さま、今年もありがとうございます」

ビシッといっせいに頭を下げていました。大仏建立は少なくとも聖武天皇の生きた時代のみに限っては完全に失敗でした。経済を破壊し、社会に混乱をもたらしました。しかし、二度の焼き討ちにあっても再建され、21世紀の今日まで、民の心を一つにするという聖武天皇の理想が生き続けている。そのことに、感動を覚えました。

奈良の大仏
奈良の大仏

つづき 鑑真の来日

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李白の有名な詩33篇を、漢文書き下しと中国語、現代語訳で朗読しました。それぞれの詩の詠まれた背景も、詳しく解説していますので、いっそう李白の詩の世界が身近に親しみ深く感じられるはずです。

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本日も左大臣光永がお話しいたしました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永

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