鑑真の来日

受戒制度の必要性

大陸から伝わった仏教は国家の保護のもと広まっていきましたが、それに連れて質の悪い僧侶も増えてきました。


唐招提寺 入り口


唐招提寺 入り口


唐招提寺

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酒を飲む、女性とたわむれる、そればかりか、ロクにお経を読めないものもありました。なぜこんな事が起こったのでしょうか?

実は僧侶になると一般の戸籍から抜けて僧侶の戸籍に移され、課税を免除されることになっていたため、形ばかりの僧侶が増えたのです。

もちろん律令によって僧侶になれる資格は定められていましたが厳密なものではなく、勝手に剃髪して僧を名乗る者もいたのです。

「これではだめだ。僧侶に、受戒をさせることのできる、
しっかりした資格のある僧が必要だ」

しかし、日本には正式に仏教の戒律を授けられる僧はいませんでした。

栄叡・普照 唐へ

中国へ向かう使者として興福寺の僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)の二人が選ばれます。

733年栄叡と普照は、多治比広成(たじひのひろなり)を大使とする(第10回?)遣唐使に加わって中国へ向かいます。四隻の遣唐使船に分かれて数百人が乗り込み、難波津から出航します。

船団は瀬戸内海を経て関門海峡を抜け、まず博多につきます。

当時、日本は新羅と争っていたので朝鮮半島西岸を北上する「北路」は取れず、東シナ海から揚子江河口を目指す「南路」が取られました。

栄叡・普照がたどったルート
【栄叡・普照がたどったルート】

栄叡「ちゃんと行きつけるだろうか…」
普照「大丈夫だ栄叡、俺たちには御仏のご加護がある」

潮風に吹かれながら、若い二人の僧はつぶやいたかもしれません。

長安の栄叡・普照

一行は長いの船旅の末、揚州にたどり着き、運河をさかのぼって長安に至ります。かつて阿倍仲麻呂や吉備真備がたどったのと同じルートです。

栄叡「おお…これが長安か」
普照「なんてきらびやかな…」

栄叡と普照の二人は、はじめて見る長安の街のたたずまい、世界の文化の粋を集めたその輝くばかりの威容に、言葉を失います。

失意の栄叡・普照

栄叡・普照は洛陽や長安で10年間にわたる修行を終えた後、日本へ来てくれる戒律僧をさがしました。しかし、なかなかうまくいきませんでした。

どこの寺でも栄叡・普照は歓迎されたものの、いざ「日本へ来てください」と言うと、返ってくる反応は決まっていました。

「海を越えて日本へ行くなんて。
危険すぎます。無理です」

栄叡「はあ…やっぱり難しいのかなあ」

しかしある人が教えてくれました。

「もしかしたら…鑑真和上を訪ねていったら、
どうでしょう」

鑑真 その経歴

鑑真は688年揚州江陽県に生まれました。14歳の時父親と大雲寺に行った際、仏像の美しさに心打たれ、その場で僧になることを決意したといいます。

18歳で光州の僧道岸から菩薩戒を授けられ20歳で長安に入り以後長安や洛陽で高僧たちから律宗や天台宗の教えを学びます。

25歳の時揚州ではじめて僧侶たちを前に戒律の講義を行い、その見事な教えぶりから「江淮の化主」と仰がれます。

以後講義は430回に及び、鑑真が戒をさずけた僧は、のべ4万人に及びました。

鑑真を訪ねる

栄叡「おお、そんな素晴らしい方がいらっしゃるとは!」
普照「戒を授けてくれる方として、これ以上の方は無い」

742年、栄叡と普照は揚州の大明寺に鑑真を訪ねます。

鑑真は、寺の講堂に弟子たちを集めて言います。

「話はきいたであろう。ここにいるお二人は、
はるばる日本から御仏の教えを求めて海をわたって来られたのだ。

お前たちは日本という国を知っているか。
かつて聖徳太子という皇子が仏教をさかんにされた。

長屋王という方は千枚の袈裟を編んでわが国に送ってくださった。
たとえ海をへだてていても、仏の教えを盛んにすることにおいて、
縁が深い国なのだ。

誰か、われこそは日本へ渡るという者はいないか?」

ざわざわ…

誰もかれも顔をみあわせますが、さすがに自分がと名乗り出るものはいません。

「そうか。誰も行かないというなら仕方が無い。
私が、行くことにしよう」

鑑真の弟子たちは驚きます。

弟子たち
「鑑真さま、危険すぎます!海の向こうなんて」

鑑真
「御仏の教えを広めるためなら、
わが身の危険など、かまっていられない」

弟子たち
「わかりました。鑑真さまが行かれるのなら、
私も」「私も」

こうして鑑真以下、多くの僧たちが日本へ渡ることになりました。

困難を極める航海

しかし、航海は苦難をきわめました。

ある時は海賊として密告され、
ある時は嵐で難破し、
ある時は鑑真の渡航を食い止めようとする弟子の密告で
出航前に連れ戻されて、
ある時は遠く海南島まで流され…

5回にわたる渡航はいずれも失敗しました。

栄叡の死と鑑真の失明

その間、栄叡は病にかかってしまいます。

栄叡「普照。俺はこれまでのようだ。鑑真さまを必ず日本へ」
普照「栄叡…栄叡ッ…!!」

749年、栄叡は端州龍興寺で没しました。長年苦楽を共にしてきた普照は大声で泣き叫びました。

鑑真
(栄叡…お前のためにも、ワシはぜったいに日本にたどり着くぞ…)

鑑真は栄叡についで弟子の祥彦(しょうげん)を失い、みずからも長年の旅の疲れから、目の光を失っていました。

長旅の間、多くの弟子が亡くなったり、諦めて鑑真のもとを去っていきます。そんな中にも鑑真は各地で仏教の教えを説いてまわりました。

第十次遣唐使

752年、遣唐使がふたたび派遣され長安に入ります。大使は藤原清河。副使は吉備真備・大伴古麻呂(おおとものこまろ)です。

鑑真一行は今度こそ最後の機会と、遣唐大使藤原清河に日本へ同行させてくれと願い出ます。しかし、藤原清河はこれをこばみました。玄宗皇帝が鑑真を惜しみ、日本へ渡したくないと考えていたためです。

(ああ…どうしても日本へ渡ることはできぬのか…)

さすがに十年来の苦労がドッと来ていました。肩を落とす鑑真。その夜、

とととん…

窓を叩く者がありました。

「鑑真さま、鑑真さま」
「ん?そなたは…」

「遣唐副使をつとめる大伴古麻呂さまの使いの者です。
鑑真さま、すぐに抜け出してください。舟にお連れします」
「おお!それでは!」

鑑真一行は夜のうちに貨物にまぎれ、遣唐使船に乗り込みます。同じく遣唐使船に乗りこんだ中に36年ぶりに帰国を許された阿倍仲麻呂がいました。

しかし阿倍仲麻呂が鑑真が舟に乗ったことを知っていたかどうか、定かではありません。

こうして遣唐使船は蘇州から出航しますが、途中暴風雨が襲います。藤原清河、阿倍仲麻呂らの乗った船は難破してしまいます。一方、鑑真の乗った船は苦難の末、薩摩(鹿児島)の坊津(ぼうのつ)にたどり着き、翌754年、一行は奈良の都に入ります。

日本初の登壇授戒

聖武上皇は鑑真一行の労をねぎらいます。

「鑑真殿、よく日本にいらしてくださいました。
さぞかし苦難の旅でございましたことでしょう。
ん…鑑真殿?」

「ああ失礼。目が見えませぬものでな」
「なんと、御目が!」

「ははは、心の目は見えております」

なんて言ったかわかりませんが。

聖武上皇は鑑真に受戒僧の権限を授けます。

754年4月、東大寺の大仏殿前に戒を授けるための壇(戒壇)を設け、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇以下400人の僧が鑑真から戒を授けられました。これが日本発の登壇授戒です。

唐招提寺

その後、鑑真は数年を東大寺で過ごし、朝廷から天武天皇第五皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の館跡(現奈良市五条町)を下されると、戒律を学ぶ僧が修行するための道場を築きました。後の唐招大寺です。


唐招提寺


唐招提寺 戒壇

鑑真は唐招大寺で静かに余生を過ごし、763年76歳で静かに息を引き取りました。


鑑真の墓

唐招提寺には平城京の宮殿から移築した講堂、金堂や宝蔵…歴史的建造物の数々が、天平文化の息吹を今日に伝えています。

孝謙天皇と藤原仲麻呂

解説:左大臣光永

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