阿衡事件

光孝天皇から宇多天皇へ

光孝天皇の治世はわずか3年でした。

もともとが55歳というご高齢でのご即位であり、またその治世の間、たびたび天変地異がおそい、老齢の天皇のお体とお心をむしばみました。

ついに光孝天皇は重い病にかかります。

「基経…基経…」
「ははっ、ミカド、基経はこれに」

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光孝天皇の病床に召しだされたのは、関白太政大臣・藤原基経です。光孝天皇のもとで実際に政治をとりしきってきたのは基経でした。

光孝天皇は自分に実権がないことをよく承知しており、基経に遠慮して今日まで皇太子を立てていませんでした。しかし、明日をも知れぬ命となっては、もうぐずぐずしてもいられませんでした。

「次の天皇には…第七皇子の源定省
(みなもとのさだみ)を…立てよ…」

「ははっ…しかし定省殿は臣籍に降下し、
源氏となっておりますが」

「かまわぬ。一度臣籍に下り臣下の立場を経験した、
その経験は、必ずや良い方向に働くであろう。
少なくとも私よりは…うまくやってくれる…」

光孝天皇のお言葉を受けて、急遽第七皇子で臣籍に下っていた源定省(みなもとのさだみ)を親王に戻し、皇太子に立てます。源定省この年21歳。

光孝天皇から宇多天皇へ
光孝天皇から宇多天皇へ

「これで…よし」

光孝天皇は源定省の立太子を見届けると、その日のうちに息を引き取られました。享年58。55歳のご高齢で即位され、関白太政大臣藤原基経のもとで、政治むきの実権はありませんでしたが、人柄のおだやかな、風流を愛する天皇で、周囲から愛されていました。

百人一首には光孝天皇の御製「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ」が採られています。

かくして、

887年(仁和3年)、宇多天皇が即位します。

11月の即位式で宇多天皇は藤原基経に勅書を下します。いわく、

それ万機の巨細、百官已(すで)に総(す)べ、みな太政大臣に関白し、然る後に奏下、一(いつ)に旧事のごとく、主者施行せよ

すなわちここに史上はじめて「関白」の語が用いられました。

もっとも関白の職権そのものは、先帝光孝天皇の代から行われており、公式文書ではじめて言葉になった、ということです。

ちなみに「初の関白」が藤原基経だということは間違いないのですが、その就任時機については諸説あり、いまだ定まっていません。

阿衡

宇多天皇は即位早々、藤原基経を引き続き関白の職に任ずる詔勅を下します。藤原基経は当時の作法にのっとりいったん辞退します。

その後宇多天皇は当時最高の学者といわれた左大弁橘広相(さだいべん たちばなのひろみ)に文章を書かせます。

「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」

しかし、この文章に藤原基経の側近、文章博士藤原佐世(もんじょうはかせ ふじわらのすけよ)が噛みつきます。

「基経さま、だまされてはなりませぬ。阿衡とは位が高いだけで実権の無い名誉職です」。

「なに名誉職。ワシを国政から締め出そうというのか。ミカドのお気持ちはよくわかった。誰が実力を握っているのか、この際思い出していただこう」

怒った藤原基経は一切の政務を放棄し、国政が立ち行かなくなってしまいました。宇多天皇は困り果ててしまいます。

菅原道真登場

「はあ…どうしたものか。そうじゃ。こんな時こそ道真に相談しよう」

宇多天皇は讃岐に赴任していた菅原道真を召し出し、意見を求めます。

菅原道真(承和13年845年-延喜3年903年)。代々の学者の家系である菅原是善(これよし)の三男として生まれます。母は伴氏(詳細不明)。

菅原家は代々の学者の家系で、道真も幼少より文才にすぐれ11歳で詩を作り父を驚かせます。貞観4年(862年)18歳で文章生(もんじょうしょう)となり、元慶元年(877年)文章博士(もんじょうはかせ)。

880年父是善が亡くなると祖父清公(きよきみ)以来の菅原家の私塾である菅家廊下(かんけろうか 山陰亭)を主催。

仁和2年(886年)讃岐守に就任していました。

宇多天皇と藤原基経の衝突をふせぐ

宇多天皇のもとに召された菅原道真は申し上げます。

「橘広相を処罰し、藤原基経殿を再度関白の位につけるべきです」

「わかった道真。そちが言うことであれば、従おう」

宇多天皇は道真の進言にしたがい橘広相を罷免します。しかし藤原基経の怒りは収まりません。

「ただの罷免では生ぬるい。橘広相を島流しにしろ!でなければわしの怒りは収まらぬ」

道真は今度は藤原基経のもとに書状を送ります。これ以上争うことは藤原氏のためにならないのではありませんかと。誠意を尽くした道真の文に、さしもの関白藤原基経も心を動かされます。

「うむ…わしも多少大人げなかった。道真殿の言うこともっともだ。これ以上の争いは止そう」

宇多天皇の信任を得る

こうして事件は丸く収まり、天皇家と藤原氏との衝突は避けられました。しかも双方に遺恨を残さず被害を最小限にとどめた形で。

(道真の采配、見事)

こうして宇多天皇はいよいよ道真を御信頼するようになっていかれました。

寛平2年(890年)道真は讃岐守の任期を終え中央政界に復帰。宇多天皇の信任を得て翌891年には蔵人頭に抜擢されます。この年、長い間権力をふるっていた関白藤原基経が亡くなり、息子の時平が跡をつぎます。

次回「菅原道真の左遷」に続きます。

解説:左大臣光永

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