菅原道真の左遷

遣唐使の廃止

寛平5年(893)菅原道真は参議、左大弁に至り中央政界に強い影響力を持つに至ります。

寛平6年(894)8月21日、遣唐大使に任じられます。遣唐副使には道真に親しい紀長谷雄(きのはせお)が任じられました。

ところが翌月の9月14日、道真は「諸公卿をして遣唐使の進止を議定せしめたまわんことを請ふ状」という文書を宇多天皇に奏上します。

入唐している留学生が唐の商人にたくして寄越した手紙によれば、唐は衰退しているし、無事にたどりつける者も少ないと聞いています。それでも遣唐使を続けるべきかか。止めるべきか。どうかそれを役人たちに話し合わせてくださいと。

それから半月後の9月30日に遣唐使は廃止と決まりました。

しかし任命されて一ヶ月後に廃止というのも急すぎる話です。以前から遣唐使廃止の方向で話が進んでいて、道真は形式的に遣唐使に指名されただけという説、いざ任命されたがよくよく考えたら遣唐使なんてダメじゃんと考え直したという説などあります。

とにかく、承和の遣唐使(承和3年(836))以来58年目になる平安時代4度目の遣唐使はついに実現することなく、遣唐使そのものが廃止となりました。

とはいえ、中国との貿易がまったく途絶えたわけではありません。遣唐使廃止後も博多や敦賀に唐・宋の貿易船が数多く入港し、中国の文物をもたらし続けました。

昔の教科書にあったような「遣唐使廃止によって中国文化の影響がなくなり、国風文化が花開いた」という図式は、まったく事実に反しています。

遣唐使廃止後も中国の文物は入り続け、わが国は中国文化を取り入れ、アレンジしながら独自の国風文化を発達させていったのです。

宇多天皇の譲位

その後も道真はいよいよ宇多天皇の信任を受け、中納言、民部卿、春宮大夫など順調に出世を重ねていきます。

寛平9年(897)6月19日、菅原道真は権大納言兼右大将に任じられます。同じ日の除目で、藤原時平は大納言兼左大将に任じられます。以後、宇多天皇を支えて、左大将藤原時平・右大将菅原道真の体制となります。

同年7月3日、宇多天皇は皇太子の敦仁(あつぎみ・あつひと)親王に譲位します。醍醐天皇の誕生です。時に宇多天皇31歳、醍醐天皇13歳。なぜ31歳の男盛りで宇多天皇は譲位したのか?

事情はよくわかりません。よほどイヤなことがあったんでしょうか。

それはそうと、宇多天皇は譲位を決めるに当って、一人菅原道真だけに相談しました。道真の上には左大臣・右大臣・大納言・中納言以下多くの群臣がいるのに。それらをすっ飛ばして道真だけを呼んで、密室会議で決めてるんですね。明らかなえこひいきです。

もともと道真の急ピッチな出世に反感を持っていた人々は、いよいよ道真を妬み恨みました。

左大臣藤原時平 右大臣菅原道真

899年藤原時平が左大臣に、道真が右大臣に任じられます。菅原道真は吉備真備につぐ学者出身の大臣となりました。

おもしろくないのは時平です。「藤原氏でも無い者が大臣の位につくなど、ありえぬ。このままでは藤原氏を越して太政大臣にもなりかねない…」。

危機感をつのらせた藤原時平、菅原道真がその娘を宇多上皇の子で醍醐天皇の弟である斉世親王(ときよしんのう)に嫁がせていることに目をつけました。

藤原時平は醍醐天皇に道真を讒言します。

「道真は帝を追放し、弟君の斉世親王を天皇の位につけるつもりです。これは謀反です」

「なに道真が。けしからぬ」

菅原道真と斉世親王
菅原道真と斉世親王

醍醐天皇はもともと口うるさい道真とその背後にいる父宇多上皇を煙たく思っていました。そこへ時平の讒言です。ここぞとばかりに菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷し、大宰府送りとされます。

面会謝絶

知らせを受けた醍醐天皇の父宇多上皇は大いに驚かれます。

「道真が謀反。そんなばかな。道真の人柄の確かなことは、我が誰よりも知っておる。帝は誤解されているのじゃ」

宇多上皇はすぐにわが子醍醐天皇のもとに御輿を走らせます。しかし皇居に駆け付けた宇多上皇のお輿は門の前で行く手を阻まれます。

「帝はお会いにならないとおっしゃっています」
「なぜ阻む。これなるは上皇様の御輿であるぞ」
「誰であろうと、門を開けるなと帝の仰せです」

結局、宇多上皇は引き下がるほかありませんでした。

大宰府へ

昌泰4年(901)2月1日、道真を送る使いは京を出発します。それまでに道真の門人たちの多くが左遷され、息子たちのうち任官していた四人も左遷が決まりました。

菅大臣神社(菅家邸址)
菅大臣神社(菅家邸址)

菅大臣神社(菅家邸址)
菅大臣神社(菅家邸址)

道真は、出発する際、ふと庭のほうを見て、子供の頃から親しんできた梅の木に目を留めます。そこで詠んだ歌はあまりにも有名です。

東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花
主なしとて春を忘るな

歌の心が通じたのか、梅の花は主人を慕って遠く大宰府まで飛び、その地に降り立ったと言います。

これを「飛梅」と言い、現在も太宰府天満宮の本殿前に御神木として植えられています。

都から遠く離れた大宰府、浄妙院(榎寺)に謹慎すること二年。延喜3年(903年)2月25日菅原道真は失意のうちに没しました。

怨霊となった道真

道真の死後、都では異常な出来事が相次ぎます。飢饉や干ばつ。そして道真の左遷にかかわった人々が次々と謎の死を遂げます。

906年、道真左遷の陰謀にくみした藤原定国(ふじわらのさだくに)が 40歳で亡くなったのを始めとして…

908年、宇多上皇が醍醐天皇に面会に来られたのを皇居の門前で拒んだ藤原菅根(ふじわらのすがね)が雷に打たれて死亡。

そして909年、道真最大の政敵藤原時平が39歳の若さで病に倒れます。

923年には藤原時平の妹と醍醐天皇の皇太子保明(やすあきら)親王が亡くなります。

「菅公の祟りだ…菅公の祟りだ…ぶるぶる」

人々はただ恐れるばかりでした。

太宰府天満宮
太宰府天満宮

清涼殿落雷事件

延長8年(930年)6月26日。宮中の清涼殿では、重要な朝議が行なわれていました。

その時、愛宕山の方角から沸き立った黒雲はまたたく間に平安京全体を覆いつくし、雷まじりの激しい雨となります。そして、

ビカッ、ガラガラガラーーッ!!

「ぎゃああああ!!」

ものすごい音と光とともに、清涼殿に雷が直撃します。大納言はじめ六人が死亡するという大惨事となりました。この時醍醐天皇も清涼殿にいらっしゃり、惨状を目のあたりにされます。

「なんという残酷…ああ。これも道真の祟りなのか。
道真。それほど我が憎いか。もうやめてくれ。やめてくれ…」

3ケ月後、醍醐天皇は崩御しました。

こうして菅原道真の左遷にかかわった主だった人々はすべて死に絶えました。

北野天満宮 そして学問の神に

このようなことが重なり、朝廷では道真の左遷を撤回する決議がなされます。正二位、左大臣についで太政大臣の位が道真に贈られます。

そして947年京都に道真をまつった北野天満宮が建てられ、今日に至るまで信仰を集めています。

北野天満宮 三光門
北野天満宮 三光門

次回「『古今和歌集』の成立」に続きます。

解説:左大臣光永

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