菅原道真の左遷

遣唐使の廃止

菅原道真は893年参議、左大弁に至り中央政界に強い影響力を持つに至ります。

894年遣唐大使に任じられますが、道真は遣唐使の廃止を訴えます。

「唐も衰退しておりますし、航路も危険です。その上わが国の財政もひっ迫しており、これ以上遣唐使を派遣することに意義は無かろうと思われます」

「わかった道真。そちが言うことであれば、従おう」

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宇多天皇は信頼する道真の進言を受け入れ、ここに260年あまり続いた遣唐使が廃止されます。

その後も道真は中納言、民部卿、春宮大夫、侍読など順調に出世を重ねていきます。

宇多天皇の譲位

897年宇多天皇は13歳の醍醐天皇に譲位し、上皇となります。早く譲位したのは上皇という自由な立場から藤原氏をけん制したいというお考えからだったようです。

「よいか。困ったことがあれば何でも道真に相談するのじゃぞ」

「はいはい。わかっております父上
(まったく父上の道真狂いも困ったものだ…)」

醍醐天皇としては、父の側近である道真に口うるさく言われたくない。 自分は自分のやり方でやりたいというお気持ちがあったと思われます。

宇多上皇と醍醐天皇
宇多上皇と醍醐天皇

左大臣藤原時平 右大臣菅原道真

翌年の899年藤原時平が左大臣に、道真が右大臣に任じられます。菅原道真は吉備真備につぐ学者出身の大臣となりました。

おもしろくないのは時平です。「藤原氏でも無い者が大臣の位につくなど、ありえぬ。このままでは藤原氏を越して太政大臣にもなりかねない…」。

危機感をつのらせた藤原時平、菅原道真がその娘を宇多上皇の子で醍醐天皇の弟である斉世親王(ときよしんのう)に嫁がせていることに目をつけました。

藤原時平は醍醐天皇に道真を讒言します。

「道真は帝を追放し、弟君の斉世親王を天皇の位につけるつもりです。これは謀反です」

「なに道真が。けしからぬ」

菅原道真と斉世親王
菅原道真と斉世親王

醍醐天皇はもともと口うるさい道真とその背後にいる父宇多上皇を煙たく思っていました。そこへ時平の讒言です。ここぞとばかりに菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷し、大宰府送りとされます。

面会謝絶

知らせを受けた醍醐天皇の父宇多上皇は大いに驚かれます。

「道真が謀反。そんなばかな。道真の人柄の確かなことは、我が誰よりも知っておる。帝は誤解されているのじゃ」

宇多上皇はすぐにわが子醍醐天皇のもとに御輿を走らせます。しかし皇居に駆け付けた宇多上皇のお輿は門の前で行く手を阻まれます。

「帝はお会いにならないとおっしゃっています」
「なぜ阻む。これなるは上皇様の御輿であるぞ」
「誰であろうと、門を開けるなと帝の仰せです」

結局、宇多上皇は引き下がるほかありませんでした。

大宰府へ

一方道真の舘では…

「道真さま、そろそろご出発です」
「わかった…」

道真は、ふと庭のほうを見て、子供の頃から親しんできた梅の木に目を留めます。

(もうこの梅の花が咲くのを見ることはできないのか…。 冬が終わって東風が吹いたら、この梅の花を匂い立たせてくれ。主人の私がいなくなっても、春の訪れを忘れたりしないでおくれ…)

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
主なしとて春な忘れそ

歌の心が通じたのか、梅の花は主人を慕って遠く大宰府まで飛び、その地に降り立ったと言います。

これを「飛梅」と言い、現在も太宰府天満宮の本殿前に御神木として植えられています。

都から遠く離れた大宰府、浄妙院(榎寺)に謹慎すること二年。延喜3年(903年)2月25日菅原道真は失意のうちに没しました。

怨霊となった道真

道真の死後、都では異常な出来事が相次ぎます。飢饉や干ばつ。そして道真の左遷にかかわった人々が次々と謎の死を遂げます。

906年、道真左遷の陰謀にくみした藤原定国(ふじわらのさだくに)が 40歳で亡くなったのを始めとして…

908年、宇多上皇が醍醐天皇に面会に来られたのを皇居の門前で拒んだ藤原菅根(ふじわらのすがね)が雷に打たれて死亡。

そして909年、道真最大の政敵藤原時平が39歳の若さで病に倒れます。

923年には藤原時平の妹と醍醐天皇の皇太子保明皇子(やすあきらおうじ)が亡くなります。

「菅公の祟りだ…菅公の祟りだ…ぶるぶる」

人々はただ恐れるばかりでした。

清涼殿落雷事件

延長8年(930年)6月26日。宮中の清涼殿では、重要な朝議が行なわれていました。

その時、愛宕山の方角から沸き立った黒雲はまたたく間に平安京全体を覆いつくし、雷まじりの激しい雨となります。そして、

ビカッ、ガラガラガラーーッ!!

「ぎゃああああ!!」

ものすごい音と光とともに、清涼殿に雷が直撃します。大納言はじめ六人が死亡するという大惨事となりました。この時醍醐天皇も清涼殿にいらっしゃり、惨状を目のあたりにされます。

「なんという残酷…ああ。これも道真の祟りなのか。
道真。それほど我が憎いか。もうやめてくれ。やめてくれ…」

3ケ月後、醍醐天皇は崩御しました。

こうして菅原道真の左遷にかかわった主だった人々はすべて死に絶えました。

北野天満宮 そして学問の神に

このようなことが重なり、朝廷では道真の左遷を撤回する決議がなされます。死後20年目の名誉回復でした。正二位、左大臣についで太政大臣の位が道真に贈られます。

そして947年京都に道真をまつった北野天満宮が建てられ、今日に至るまで信仰を集めています。

次回「『古今和歌集』の成立」に続きます。

解説:左大臣光永

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