光仁天皇~天武系から天智系へ
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白壁王の擁立
770年、称徳天皇が崩御すると、大問題が起こります。称徳天皇は生涯未婚で跡取りがいらっしゃらなかったのです。
高位高官たちを前に、右大臣吉備真備が発言します。
「これでは皇室が途絶えてしまう。どうしたものか?」
藤原百川(ふじわらのももかわ)が発言します。藤原式家の祖である藤原宇合(ふじわらのうまかい)の息子です。
「私は白壁王を推します」
ざわざわっ…
ここでおさらいです。
【藤原四子】
天武系から天智系へ
一同驚きます。なにしろ白壁王はすでに62歳のご高齢。しかも天智天皇の孫です。言ってみれば現政権にとって敵方にあたるわけです。壬申の乱で勝利した大海皇子が天武天皇として即位して以来、しばらく天武系の天皇がつづいてきました。
【白壁王】
「百川殿、これは大胆なご意見ですね。
私などは天武帝の孫であらせられる
文室浄三(ふんやのきよみ)殿を推したいのだが…」
「ありえません」
藤原百川は左大臣藤原永手・内大臣藤原良継らと共に白壁王の擁立を強くおしすすめます。一説によると、白壁王擁立に反対する吉備真備の前で偽の遺言を読み上げてまで、藤原百川は白壁王を推したといいます。
こうして770年、白壁王は光仁天皇として即位しました。壬申の乱以来、ほぼ100年ぶりの天智系の天皇です。以後、平成の今日にいたるまで天智系の天皇が続いています。
ちなみに白壁王の父・志貴皇子は天智天皇第七皇子で、万葉歌人としてよく知られています。
石(いは)ばしる 垂水の上の
さ蕨の 萌え出るづる 春になりにけるかも
(岩の上をほとばしる滝の上の蕨が芽吹く、春になったよ)
吉備真備の最期
藤原百川との対立が関係しているのかどうか…吉備真備は称徳天皇崩御後の770年、辞職します。
(俺の時代も終わった…)
そして5年後の775年世を去りました。享年81。学者出身で大臣の位にのぼったのは、吉備真備と菅原道真の二人だけです。
井上内親王の呪詛事件
光仁天皇の皇后を井上内親王(いかみのひめみこ いのえないしんのう)、皇太子を他戸親王(おさべのみこ)といいました。
【井上内親王】
772年、井上内親王が、夫である光仁天皇を呪い殺そうとしていると嫌疑をかけられ、皇后の位を廃されます。同時に他戸親王も皇太子を廃されました。
井上内親王、他戸親王の母子は大和国宇智郡(現奈良県五條市)の館に幽閉され、775年4月27日に同じ日に亡くなります。
渡来人の血を引く皇太子
かわって山辺親王が皇太子に立てられます。山辺親王の母は渡来人で、したがって天皇になれる可能性は低かったのですが、この呪詛事件によって機会がまわってきました。
【山辺親王】
これらの事件の裏には、藤原百川の策謀があったという説が有力です。
「親王さま、すべて百川にお任せください。
必ず親王さまを帝位につけてみせます」
「そうは言うが…私の母はしがない渡来人。
どうにもならんぞ」
「私に考えがございます。
そのかわり親王さまが即位したあかつきには…」
こんな感じだったんじゃないかと。この山辺親王が後の桓武天皇です。藤原百川自身は桓武天皇の即位を見る前に亡くなりますが、百川の属する藤原式家は桓武天皇のもと重用されていくのです。
【藤原式家】