鳥羽上皇と崇徳天皇の対立
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日本の皇室の歴史をみわたすと、ある特徴に気づきます。
それは争いが起こるタイミングです。
父から子へ子から孫へという直系相続から、兄から弟へという傍系相続に切り替わる、もしくは切り替わりそうになった時に争いが起こっています。
ひらたく言えば、兄弟の間で争いになることが多いのですが、もちろん個人的な兄弟ゲンカということでなく、
たとえば兄と弟、それぞれの血統と、その背後にいる勢力が対立して、世が乱れるというわけです。
古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」は、天智天皇が、弟の大海人皇子に跡をつがせると言っていたのに、後に嫡男の大友皇子にやっぱり継がせると言ったことにより、天智の没後、大海人皇子と大友皇子の間で争いになったとされています。
中世においては天下分け目の保元の乱は、崇徳上皇と後白河天皇という実の兄弟が、それぞれ源平の武士を招集し、合戦におよびました。
南北朝の動乱も、もともとは兄弟間の血筋の対立から始まっています。鎌倉時代。後嵯峨法皇には、後深草上皇と、亀山天皇という二人の息子がいましたが、
後嵯峨法皇が亡くなるときに、兄後深草の系統と、弟亀山の系統と、どちらを正当とするかご遺言を残さずに亡くなったために、後嵯峨なき後、後深草系統と、亀山系統が延々ともめました。
後深草の系統は現同志社大学新町キャンパスちかくの持明院御所を拠点としていたので持明院統。
亀山天皇の系統は嵯峨大覚寺を拠点としていたので大覚寺統といいます。
これら持明院統と大覚寺統の対立が延々と尾をひいて、そして大覚寺統から出た後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に独自の朝廷を開きました。これが南北朝の動乱のはじまりです。
つまり南北朝の動乱のもとをただせば兄と弟の血筋の対立から起こっているわけです。
というわけで本日は、保元の乱に到るまでの状況…鳥羽・崇徳の対立という話をします。
鳥羽と崇徳の父子関係がぎくしゃくしていたために、後にそれが崇徳・後白河の兄弟の対立になり、やがて天下分け目の保元の乱につながっていくまでのお話です。
不倫の子
元永2年(1119年)、鳥羽天皇に待望の第一子が生まれます。顕仁親王。後の崇徳天皇です。しかし鳥羽天皇は喜ぶお気持ちにはなれませんでした。
「あなた、私たちの子ですよ」
「ふん。汚らわしい。そいつは叔父子ではないか」
「あなた…」
顕仁親王の母・璋子(しょうし。藤原璋子・待賢門院)は鳥羽天皇に嫁ぐ前から白河法皇に愛されていました。しかも白河法皇との関係は、鳥羽天皇に嫁いだ後も続いていました。その結果、璋子は顕仁親王をみごもったのでした。このことは鳥羽天皇も周囲の者も知っており、いわば公然の秘密でした。
【鳥羽上皇と崇徳天皇】
系図を見ればわかるとおり白河法皇は鳥羽天皇の祖父です。祖父の子は叔父になるため、鳥羽天皇は顕仁親王を「叔父子」と言って忌み嫌ったとされます。
「人、皆これを知るか。崇徳院は白河院の御落子云々。鳥羽院もその由を知ろしめして、『叔父子』とぞ申さしめ給ひける」(『古事談』)
白河法皇の溺愛
白河法皇も顕仁親王が自分の子であることを知っており、何かと贔屓にします。
「もう顕仁も5歳だろう。
そろそろ顕仁に位をゆずったらどうだ」
「………」
保安4年(1123年)白河法皇は21歳の鳥羽天皇を強引に退位させ、わずか5歳の顕仁親王を即位させます。崇徳天皇の誕生です。そして崇徳天皇即位後も白河法皇が「治天の君」として権力をふるいつづけます。
鳥羽上皇の罠
しかし大治4年(1129年)白河法皇が崩御します。すると鳥羽上皇の復讐が始まります。
(お前の子孫に帝位はわたさん…)
鳥羽上皇は、それまで白河法皇よりだった人々を左遷し、白河法皇から遠ざけられていた人々を復権させます。さらに崇徳の子孫が皇位につけないよう、罠をしかけます。
鳥羽上皇は、寵愛していた得子(とくし・藤原得子・美福門院)の生んだ三歳の体仁親王(なりひとしんのう)を養子にするよう、崇徳にすすめます。その上で体仁親王を天皇に立てて院政を行うよう、崇徳にすすめました。
「わが子を天皇に立てれば、天皇の父として院政が行なえるではないか」
「なるほど…いよいよ私が院政を行えるのですね」
崇徳天皇は父鳥羽上皇のすすめるままに体仁親王を養子にして、永治元年(1141)体仁親王に譲位しました。近衛天皇の誕生です。
(ありがたい…何だかんだ言っても、
父上は私のことを思ってくださっているのだなあ)
しかし、これは鳥羽上皇のしかけた罠でした。近衛天皇即位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と書かれていました。つまり、崇徳は「子」ではなく「弟」に譲位したことになります。
院政とは天皇の父または祖父が現役天皇にかわって政治を行うことです。「弟」への譲位では院政を行なうことができません。「弟」。この一文字のために、崇徳は政治から締め出されたのでした。
「うおおおおぉぉおおぉっ
父上!!そこまで私を毛嫌いするのですか!!」
近衛天皇の早世
一時は半狂乱になりながらも、崇徳上皇はぐっと怒りを押さえました。
(まだ機会はある。一時の感情に流されるべきではない…)
近衛天皇はわずかに3歳。早世する可能性もあるし、鳥羽上皇が崩御する可能性もありました。まだ院政を行う望みが完全に絶たれたわけではありませんでした。
崇徳上皇はじっと機会をうかがいます。その機会は意外と早く来ました。美福門院の生んだ近衛天皇は眼病を患っていました。久寿ニ年(1155)、近衛天皇は17歳で早世します。その上、近衛天皇には皇子がいませんでした。
(ようやく私に機会が回ってきた…)
内心ほくそ笑む崇徳上皇。これで我が子重仁が即位すれば天皇の父として院政を行えます。
今様狂いの天皇
しかし鳥羽上皇の崇徳嫌いは徹底していました。鳥羽上皇はどうあっても崇徳の血統に位を渡すつもりはあませんでした。
その上、美福門院が、養子の守仁親王を帝位につけてくれと鳥羽上皇に訴えます。
「守仁は人柄もよく、学問もできます。
あれなら天皇として申し分なしですわ」
「守仁か…。だが親が天皇で無い者が
即位したという先例が無い」
「ならば守仁の父の雅仁殿を一時的に天皇にすればよいのです」
「なに雅仁!だめだ。あれは性格に問題がある」
雅仁親王は若い頃から当時の流行歌今様の練習に明け暮れ、喉が摺り契れてもまだ歌っていました。道楽三昧の遊び人で、政治のことなど、何もわかりません。周囲からは無能とバカにされていました。
しかし美福門院は、雅仁の即位を強く、推します!
「一時的に即位させるだけのことです。
すぐに息子の守仁に譲位させればよいのです」
「うむむ…」
ついに鳥羽上皇は折れて、29歳の雅仁親王を即位させます。後白河天皇の誕生です。鳥羽上皇も美福門院も、後白河天皇を単なるつなぎとしか考えていませんでした。しかし後白河天皇は後に老獪な後白河法皇として乱世を切り抜けていくことになります。
失意の崇徳上皇
ともかく、後白河天皇の即位によって崇徳の院政への望みは完全に断ち切られました。
「うう…父上…この仕打ち、あんまりです!」
失意のどん底にあった崇徳上皇に、摂関家の内部抗争に敗れて同じく失意の底にあった藤原頼長が接触してくるのは、それから間もなくのことでした。
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