第一次世界大戦と日本の参戦

こんにちは。左大臣光永です。

先日は熊本県上益城郡の佐俣(さまた)の湯に行ってきました。山裾のひなびた町にある温泉です。2016年の震災以来、しばらく閉鎖されていましたが、リニューアルオープンしてました。

露天風呂のすぐそばまで山の斜面が迫っており、山里の風情があって、よかったです。

本日は「第一次世界大戦の勃発と日本の参戦」ということでお話します。

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国大公・皇太子フランツ・フェルジナント夫妻がサラエボで殺害された「サラエボ事件」を機に、第一次世界大戦が始まりました。

ヨーロッパはイギリス・フランス・ロシアの三国協商からなる連合側諸国と、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国からなる同盟側諸国の2つの陣営に分かれ戦いとなります。

日本は日英同盟を口実にドイツに宣戦布告。

中国における利権をねらって山東半島に進出し、また南洋諸島にも進出しました。

サラエボ事件

1914年6月27日、オーストリア=ハンガリー帝国大公かつ皇太子のフランツ・フェルジナント(皇帝フランツ・ヨーゼフの甥)夫妻はボスニアの首都サラエボ近郊のイリッツェに入り、陸軍の演習を視察しました。

(※以後、「オーストリア=ハンガリー帝国」を「オーストリア」で統一)

翌6月28日、汽車でサラエボ入りした大公夫妻は六台のオープンカーに迎えられます。大公夫妻とボスニア総督がそのうちの一台に乗り込みました。

一行がサラエボ市内のミリャツカ川(Miljacka)沿いの道を進むと、見物人の中に一人の男が、持っていた爆弾を取り出し、傍らの電柱に信管を叩きつけ、投げつけました。

爆弾は大公妃の首に当たりましたが、爆発せず、道に転がり、そこに次の車が通った時に爆発。

10人以上が重軽傷を負い、犯人、チェブリノヴィチはその場で逮捕されました。

しかし行列はなにごともなかったように進み、

大公は市役所に到着すると、町の治安について苦情をいい、午後の予定は博物館改装の記念式典を変更して、病院に負傷者をみまうことにしました。

この予定変更が命取りになりました。

大公夫妻を乗せた車が停車していたところへ、ブローニング銃をもった青年があらわれ、一発、もう一発、発射しました。

一発目は大公の心臓付近に命中し、二発目は大公妃に命中しました。どちらも即死でした。

(二発の弾丸で二人の人間を殺害したことから、じゅうぶんな訓練を受けていたと思われる)

大公の最期の言葉は、

「ゾフィー、子供たちのために生きてくれ」

だったとか。

これが、第一次世界大戦の幕開けとなったサラエボ事件です。

ちなみにこの日は大公夫妻の14回目の結婚記念日でした。妻ゾフィー・ショティックはボヘミアの伯爵令嬢でしたが、身分違いの結婚であり、夫婦の間に生まれた子供三人はハプスブルグ家の皇位継承から外されていました。

犯人はプリンチップ(Princip)というセルビアの青年でした。

プリンチップは19歳の学生ながら武器の扱いに熟練し、軍事的な訓練を積んでいました。

その背後にはテロ組織「黒い手」およびそれを支援するセルビア政府からの支援があったといわれますが、プリンチップは一切しゃべりませんでした。

大戦勃発まで

老皇帝フランツ・ヨーゼフ (Franz Joseph I)(84)は、ザルツカンマーグート(Salzkammergut)のバート・イシュル(Bad Ischl)の離宮でサラエボ事件について知った時、側近に対して、

「全能の神に抗うことはできない」

とつぶやいたとか。

老皇帝は政治にも皇位継承にも興味を失っており、各地で頻発する民族運動や独立運動にうんざりしていました。今回のテロにも無関心でした。

しかしヨーロッパ各国はセルビアのテロを非難し、オーストリア政府も、ハンガリーの首相ティサを除いて、セルビアへの軍事行動を訴えました。

オーストリアの国民も、新聞で皇太子の殺害を知ると、

「セルビアのテロを許すな!」

反セルビア熱が高まります。

しかし、セルビアと開戦するとなるとセルビアを支持するロシアが敵にまわることは確実。

そこでオーストリアでは同盟国ドイツに特使を派遣して協力を要請をします。

皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II)は「オーストリアが何をしてもドイツはそれを支持する」と確約を与えました。

(これを「ドイツの白紙小切手」といいます)

ドイツの保証を得て、オーストリア政府は7月7日、セルビアへの軍事行動を秘密裏に決定。

7月28日、皇帝フランツ・ヨーゼフは開戦勅書に署名し、オーストリア・セルビアの国境で交戦状態に入りました。

一方、

ロシアはスラブの同胞を見殺しにできないという名目で(実際にはセルビアを見捨てればロシアのスラブ系民族の盟主という地位が失われるので)、7月30日、総動員令をかけ、ロシアはオーストリアに宣戦布告。

8月1日、ドイツも総動員令をかけ、ドイツはロシアに宣戦布告。

フランスも露仏同盟にしたがって総動員をはじめると、8月3日、ドイツはフランスにも宣戦布告。

8月4日、ドイツ35個師団100万人が中立国ベルギーに侵攻。

シュリーフェン計画を発動し、フランスとロシアを時間差で撃破すべく動き出します。

イギリスは当初、不干渉をつらぬく方針でしたが、ドイツのベルギー侵攻を機にドイツに宣戦布告。

イタリアは、中立を宣言し、事実上ドイツ・オーストリアとの三国同盟から離脱しました。

こうしてヨーロッパはイギリス・フランス・ロシアの三国協商を軸とする「連合側諸国」、ドイツ、オーストリアを中心とする「同盟側諸国」の2つの陣営に分かれ戦いとなります。

1917年からはアメリカが連合側諸国に加わります。

1914年から1918年にわたった大戦のなか、戦争のありようそのものが大きく変わりました。

機関銃が増加し、鉄かぶとが一般化し、重砲が強化され、戦車、毒ガス、手榴弾、潜水艦といった新兵器が実戦投入され、戦場はそれ以前とは比較にならないほど、凄惨に、悲惨になりました。

日本の参戦

当初、日本にとって第一次世界対戦は、遠い外国の出来事でした。新聞は、冷めた調子でこの戦争を論じていました。

その中にも、日本は積極的に連合側に加わり、これを機に中国における利権を拡大すべしと主張する論調もありました。

ドイツは膠州湾を拠点として東洋艦隊を置いていました。大戦が勃発するや、ドイツ東洋艦隊はイギリスの商船をおびやかすようになりました。

8月7日、イギリスの駐日大使グリーンはイギリス政府の覚え書を加藤高明(かとうたかあき)外相に提出します。日本はドイツ東洋艦隊の攻撃に協力してくれというのです。

加藤外相は日英同盟を口実にドイツと戦い、それをきっかけに中国に進出しようと考えていました。だからイギリスからの援助要請は、ねがったりかなったりでした。

8月7日夜、早稲田の大隈重信首相邸で緊急閣議が開かれました。その席で加藤高明外相は、イギリスの要請に応じるべきこと。

それもただ東洋艦隊を撃破するにとどまらず、これを機にドイツの根拠地を東洋から一掃し、日本は東アジア全域における軍事行動をとるべきと主張しました。

日本の指導部は、日露戦争終結後から続く、慢性的な不況に焦っていました。今回の大戦こそ、絶好の機会とみたのです。山東半島を足がかりに、大陸に利権を拡大しようというわけです。

翌8日午前2時、参戦が決議されました。午前5時半、加藤高明外相は上野発の汽車に乗り、日光田母沢(たもざわ)の御用邸におもむき、大正天皇に参戦のことを奏上しました。

しかし、日本の全面参戦は、イギリスにとって寝耳に水でした。8月11日、参戦要請を正式に取り消してきます。

しかし、加藤外相は対独参戦をゴリ押しします。8月15日、同23日期限の最後通牒をドイツに送ります。

新聞も、日本が参戦することは「日英同盟の義務」であるといって、煽り立てました。

ドイツが日本からの最後通牒を無視すると、

1914年8月23日、日本はドイツに対して宣戦布告。

海軍第一艦隊は南洋諸島のドイツ艦隊撃滅のため出動し、第二艦隊は膠州湾封鎖に向かいました。

陸軍は神尾光臣(かみおみつおみ)師団長率いる久留米第18師団を中心とした青島攻囲軍が編成されました。

9月2日、青島攻囲軍が山東半島龍口(りゅうこう)に上陸。しかし雨のため進撃がおもうにかませず、9月11日、労山湾(ろうざんわん)に、あらためて上陸。

9月28日、ドイツの前進陣地を占領し、31日の天長節祝日を機に総攻撃を開始。

この戦いで、日独両軍ははじめて偵察と爆撃に飛行機を使いました。

11月7日朝、日本軍は青島(チンタオ)を陥落させました。12月18日、神尾中将が東京に凱旋。この日、6年あまりをかけた東京駅の初開業式が行わるのに合わせた凱旋でした。

一方、第一艦隊は南進しドイツ東洋艦隊を追撃し、10月上旬、ドイツ軍基地のあるヤルート島を占領し、ついでマーシャル、マリアナ、カロリン諸島を占領しました。

国内は戦勝ムードに沸きあがり、青島陥落を祝って、提灯行列が行われました。

次回「対華21カ条要求」に続きます。

youtubeで配信中

伊藤博文暗殺事件(8分43秒)
https://youtu.be/d70ZpQ9sp3U

韓国併合(32分11秒)
https://youtu.be/gUDvzBkH4dk

明治から大正へ(12分14秒)
https://youtu.be/mkr6SYvwe7U

解説:左大臣光永