対華21ヶ条要求

こんにちは。左大臣光永です。

熊本県植木町の「宝の湯」に入ってきました。畑のど真ん中にある、ひなびた温泉です。地元の農家の人でごった返していました。愛想のいい熊本弁が飛び交って、よかったです。

本日は「対華21ヶ条要求」について語ります。

対華21ヶ条要求。

1915年(大正4)、日本が中国政府につきつけた21ヶ条の要求。満蒙における日本の利権拡大と在中日本人の権利拡大を要求した。交渉の結果13ヶ条が通り、ワシントン会議で10ヶ条に縮小された。中国で排日運動が高まるきっかけとなりました。

対華21ヶ条要求

1914年(大正3)、日本は日英同盟を口実にドイツに宣戦布告し、山東半島に進出し、青島を陥落させました。

日本軍が青島に向けて進撃する途中、中国の山東鉄道を押収しました。

袁世凱の中華民国政府は日本に抗議し、アメリカのウィルソン大統領にも日本の非を訴えました。

1914年11月7日、中国から日本へ撤退要求がきましたが、日本は無視しました。

年明けて1915年1月7日にも中国から日本へ撤退要求がきました。日本はまたも無視したばかりか、

1月18日、日置益(ひおき えき)全権大使が5号21ヶ条からなる要求を、袁世凱大統領に直接手渡しました。

「な…なんだこれはッ!」

主な内容は、

「第一号」は山東問題に関する四箇条で、

・山東省のドイツの国益処分についての日本とドイツの間てむすばれた協定を中国はすべて承認する

「第ニ号」は「南満州」と「東部蒙古」に関する七箇条で、

・旅順・大連の租借期限の99年延長
・南満州鉄道安奉(あんぽう)線の期限の99年延長
・南満州および東部内蒙古における日本人の土地貸借、所有権、商工業営業権の許可

など。

「第三号」は「漢冶萍煤鉄公司(かんやひょうこんす)」(製鉄・鉄山・石炭会社)の日中合弁についての二箇条。

「第四号」は中国が沿岸の港湾、島を他国に割譲しないことを要求した一箇条。

これらを絶対条件とて「第五号」七箇条は、

・中国政府の政治・軍事・財政顧問として日本人を雇う

・地方警察を日中共同とするか、日本人を雇う

・日本が兵器の一定数以上を中国に提供するか、日中共同の兵器廠(工場)を設立すること

・日本人に布教権を認める

・南昌(揚子江地域)を中心に鉄道敷設権を認める

・福建省の鉄道・鉱山・港湾にかんする外資導入については日本に先議する

というものでした。

欧米列強が第一次大戦で忙しいスキをねらって中国への利権拡大をはかる、火事場泥棒的な要求でした。

中国にとって一方的に不利な、内政干渉でした。

とくに「第五号」はあからさまな主権侵害であり、中国を植民地化しようという狙いが見てとれます。

諸外国からの非難が予想されたため、日本は中国側にこれを非公開とすることを要求しました。

しかしこれだけの内容を、隠し通せるわけがありません。

中国の新聞は日本の非道をうったえ、

「日本人は出ていけ!」
「日本製品は買わないぞ!」

中国各地で「日貨排斥」を唱えるデモや集会が起こりました。

日本でも、神田青年会館で在日中国人留学生が抗議集会を開きました。

日本はイギリスはじめ欧米列強にこれらの要求を内示しましたが、その際、いちばん酷い「第五号」を隠すという小細工をしました。

袁世凱はそれを知るや、第五号の内容を特に強調して、アメリカ公使に伝えました。

アメリカでは、これは日本が中国を属国化しようとするものだと非難が上がります。

アメリカ・イギリスは日本に対して「第五号」が存在しているのか?していないのか?問い合わせてきます。

加藤高明外相は追い詰められ、

「第五号はあくまで希望であって絶対的なものではない」

と言い訳しましたが、諸外国の日本への不信感を高めるだけでした。

日中の交渉は1915年2月22日から25回にわたって、北京の日本公使館で行われました。

袁世凱は欧米列強からの干渉を期待して交渉を引き伸ばしましたが、

欧米は第一次世界大戦の真っ只中であり、中国どころではありませんでした。

英・仏・露の連合国公使は袁世凱に、「日本と戦うのは得策ではない」と忠告してきました。

しかし袁世凱もねばり強く交渉し、中国の植民地化を意味する第5号だけは、断固拒否しました。

結局、日本は21ヶ条のうち第5号と若干を削除した13ヶ条の最後通牒を出すことに決めました。

新聞各紙も政府の決定を支持しました。

5月7日、日置公使は陸徴祥(りく ちょうしょう)外相を訪ねて、5月9日を期限とする最後通牒を手渡しました。

5月9日、中国政府は最後通牒を受諾し、25日にこれに基づく条約が調印されました。

このような日本の非道なやり方は、中国に深い恨みを残しました。各地で排日運動が起こります。

日清戦争以後、歴代の内閣の努力により親日派の中国人がふえていましたが、二十一ヶ条の要求を境に一気に反日に転じます。

最後通牒の提出日と受諾日の5月7日と5月9日は、以後、中国で「国恥記念日」としておぼえられることとなります。

大戦景気

第一次世界大戦が勃発すると世界経済の中心であったイギリスはじめ、ヨーロッパ諸国の経済は麻痺状態になりました。

日本もヨーロッパ不況のアオリを受けて、一時不況の波が押し寄せました。しかし1914年の中頃から軍需品の輸出をきっかけに貿易は黒字に転じました。

大戦で途絶えたヨーロッパ商品にかわって日本商品が、中国、インド、東南アジア、オーストラリア、南米までも進出します。

「大戦景気」の到来です。

日露戦争以降の輸入超過が一転して輸出超過となり、日本は日露戦争以降の長い不況を脱しました。

造船業、機械工業、金属業は取引が増え価格が急騰し、好景気となりました。政府は重化学工業に補助金を出し手厚く保護し育成しました。

重化学工業業者同士がつながりを強め発展するために、大正6年3月「日本工業倶楽部」が設立されました。

職工の賃金は3割から5割増しになり、小料理屋、飲食店もふえました。庶民は百貨店での買い物、レストランでの食事を楽しみました。活動写真や歌劇、落語や講談といった庶民の娯楽があふれました。

物価の高騰にともない大儲けする成金もあらわれました。銅や鉄で儲けた鉱山成金、造船業で儲けた船成金などがあらわれました。

しかしいい話ばかりではありません。

輸出品の高騰による好景気だったため、米などの国内消費物資の値上がりは遅れ、労働者の賃金も低くおさえられていました。

また好景気だからといって機械などの生産設備が未発達だったので、ひたすら人を動員する・残業時間をふやすなどで伸び続ける需要に対応しました。

よって時流にのった企業は儲けまくる一方、労働者や農民はより悲惨な苦しい状況になるという、社会の二分化が進みました。

「暗くてお靴がわからないわ」といっている女に対して、成金が百円紙幣に火をつけ「どうだ明るくなつたろう」といっている風刺画(和田邦坊画)は、教科書でおなじみですね。

(「明るくなつたろう」で画像検索するとさまざまなパロディ画像があって、おもしろいですよ!)

次回「ロシア革命とアメリカの参戦」に続きます。

youtubeで配信中

伊藤博文暗殺事件(8分43秒)
https://youtu.be/d70ZpQ9sp3U

韓国併合(32分11秒)
https://youtu.be/gUDvzBkH4dk

明治から大正へ(12分14秒)
https://youtu.be/mkr6SYvwe7U

第一次世界大戦の勃発と日本の参戦(11分04秒)
https://youtu.be/ct203GKSSAs

解説:左大臣光永