彰義隊(一)結成

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彰義隊。慶応4年(1868)5月15日の上野戦争で新政府軍と戦った旧幕臣を中心とする部隊。結成当初、徳川慶喜の警護と江戸市中の見回りを名目とするも、江戸城明け渡し後は新政府軍としばしば衝突。徳川慶喜の水戸退去後も上野寛永寺にたてこもり、大村益次郎率いる新政府軍に討伐されました。


上野恩賜公園 彰義隊戦死者碑

徳川慶喜、寛永寺で謹慎


現 大阪城天守

慶応4年(1864)正月6日、徳川慶喜は、鳥羽・伏見の戦いのさなか、わずかな供回りと共に大坂城を抜け出し、大坂天保山沖から軍艦開陽丸に乗り込み、江戸へ逃げ出しました。

8日出航。11日朝、品川沖に到着。12日夜、江戸城西の丸に入ります。

大坂城脱出に前後して、正月7日には慶喜ほかに対する追討令が発せられ、10日には官位が剥奪されていました。

「これからどうするか?」

江戸城に集った旧幕臣たちは、激しく議論を戦わせましたが、慶喜は結局、「ひたすら謹慎し、逆らわない」という方針を取りました。

徳川に戦意はありません。だからこれ以上いじめないでくださいというわけです。しかしもう手遅れでした。新政府軍は慶喜の討伐を決め、有栖川宮熾仁親王を征東大総督として、江戸に差し向けていました。


現 皇居・江戸城 二重橋

雑司ヶ谷の会合

徳川慶喜は慶応4年(1868)2月12日、江戸城を出て寛永寺大慈院に謹慎しました。同日、雑司ヶ谷鬼母子神の門前茶屋・茗荷屋(みょうがや)に旧一橋家家臣を中心とする17名が集まりました。


雑司ヶ谷鬼子母神


鬼子母神大門 欅並木

彼らを召集するための書状にはこのようにありました。

「慶喜公は天皇への忠義を尽くし、昨年暮れに大政を奉還された。しかるに賊徒どもの悪巧みによって、朝敵に転落されたことは遺憾の限りである。君辱められれば臣死するの時という。一橋家当主の時以来、慶喜公にお仕えする者が、どうしてこの事態を傍観していられようか。多年の御恩に報いるのは、この時である」(『彰義隊戦史』山崎有信著  アジア学叢書 より意訳)

酒もまわってきて、この日の会合は大いに盛り上がりました。しかし具体的な戦略があるわけではなく、「義憤をのべあう」という程度のものでした。

ついで2月17日、2月21日も四谷鮫ケ橋の臨済宗円応寺にて会合が行われました。

2月21日の会合では人数は67名に増えました。

彰義隊 結成

2月23日。場所を浅草の東本願寺に移して四回目の会合が行われます。今回は130名集まりました。ここで会合の名が「尊王恭順有志会」と決まります。

慶喜が寛永寺で恭順していることをふまえての名でした。そして隊の名を義をあかす、義をあきらかにするという意味から「彰義隊」と定めます。また、慶喜を取り囲む「床几」…大将が座る腰掛の意味も持たせてありました。

この日の会合で人気を二分した2人がありました。

渋沢成一郎と天野八郎。

どちらも裕福な農民出身で武士になったものです。しかし渋沢成一郎と天野八郎は経歴も、性格も、大きく違っていました。

渋沢成一郎はおちついた理論派の風で、天野八郎は三国志の英雄豪傑のような、豪快な感じでした。

渋沢成一郎。

武蔵国榛沢(はんざわ)郡(埼玉県)血洗島(ちあらいじま)の裕福な農家の出身。後に第一国立銀行や東京商品取引所を築いた渋沢栄一は従兄弟に当たります。

渋沢成一郎・栄一は当初、尊王攘夷の志士として活動し、横浜の外国人居留地焼き討ち計画を立てたこともありました。しかし縁あって一橋家に家臣として取り立てれたのが元治元年(1864)。

渋沢栄一は幕臣となった直後に慶喜に命じられてフランスに渡りますが、成一郎は国内にとどまり、幕府の奥右筆格として働きました。奥右筆は機密文書を扱う係です。

天野八郎。

上野国(群馬県)甘楽(かんら)郡磐戸(いわと)村の名主・大井田(おおいだ)家の出身。幕府の開国政策に憤り、江戸に出て学問や剣術を学びます。慶応元年(1865)定火消与力(じょうびけしよりき)・広浜利喜之進(ひろはま りきのしん)の養子となりますが、翌年、広浜家の籍を抜け、天野八郎と自称しました。

一本気な性格で、槍などの持ち物に「香車(きょうしゃ)」の文字を入れていました。将棋の「香車」のように、横にも後ろにも退かない。前に進むだけだという意味です。

渋沢と天野、投票では天野に人気が集まります。しかし天野は、

「頭取には渋沢さんがいいです。私は副頭取につきましょう」

そう言って渋沢が頭取に、天野が副頭取に就任します。

「ここですか彰義隊は」「私も入りたいのですが」「ええ、ええ、ではこちらにお名前を」「あのー、おいらも」

彰義隊結成の動きが知れたことで、参加希望者が集まってきます。

集まったのは幕臣だけではありません。藩が新政府に与したのを良しとせず浪人した者、町人や単なるヤクザ者まで、いろいろな者が加わり、彰義隊は千名を越える規模に膨れ上がります。

彰義隊、寛永寺へ

彰義隊がなによりの重大任務と考えたのが、上野寛永寺に謹慎している徳川慶喜の警護でした。

それで4月3日浅草東本願寺から上野寛永寺に屯所をうつします。慶喜を警護するためと、人数が増えすぎて浅草東本願寺では手狭になってきたせいでした。

「さようか。彰義隊ならば、寛永寺は大歓迎である」

寛永寺の責任的な立場にある輪王寺宮執刀・覚王院義観(かくおういんぎかん)は新政府に反感をもっており、彰義隊を快く迎え入れました。

しかし当の慶喜にとって、彰義隊の存在は、めいわくでした。

慶喜警護には遊撃隊という旧幕臣が1500人から1600人であたっていました。そこに、後から彰義隊が乗り込んできて、警護するというのです。

遊撃隊と彰義隊との間で縄張り争いが起こることは必定でした。そこで渋沢成一郎は、遊撃隊は境内を、彰義隊は外回りを警護させるということで争いを避けようとしました。

江戸城引き渡し

その間、旧幕府・新政府の間で虚々実々の駆け引きが行われますが、結局、江戸城は明け渡されることになりました。

慶応4年(1868)4月11日、東征軍参謀・海江田信義に率いられた薩摩・長州・尾張・熊本・岡山・大村・佐土原の七藩の藩兵が江戸城桜田門から入り、城内を点検。城郭は尾張藩の預かりとなり、武器と兵士は熊本藩が接収しました。


桜田門

しかし接収できた武器はわずかでした。武器の多くは江戸城明け渡し前に、武装解除に反発する兵士らによって持ち出されていたためです。

陸軍歩兵奉行・大鳥圭介は徹底抗戦を主張し、開城の当日、江戸城を脱出していました。旧幕府海軍副総督・榎本武揚は翌12日、旧幕府艦隊八隻をすべて館山沖に移動させます。彼らはあくまで新政府軍と戦う構えでした。

以後、戊辰戦争は関東一円へ、さらに東北へ飛び火していきます。

慶応4年(1868)4月11日、徳川慶喜は江戸を去り、水戸で謹慎となりました。

同4月21日、東征大総督・有栖川宮熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王が江戸城に入りました。

いよいよ江戸が本格的に新政府の管理下に置かれることとなりました。

彰義隊の分裂

彰義隊は、今後の身の振り方を迫られていました。

なにしろ慶喜は寛永寺を去ったのです。もう警護する必要もなくなりました。

そこで頭取の渋沢成一郎は隊士たちに提案します。

「すでに慶喜公は江戸を離れたのだから、我々も江戸の市外で新政府軍を迎え撃つべきである。上野で戦をすれば地の利が悪いし、江戸が火の海になってしまう。江戸市外で戦ったとしても、面目は立つ」

しかしこれには猛反発が来ました。副頭取・天野八郎は言います。

「あくまで江戸に踏みとどまって、薩長を打ち破るべし」

隊士たちの人気は、天野八郎に集まりました。それで彰義隊は引き続き寛永寺に留まることになります。

渋沢成一郎は徳川慶喜に取り立てられた側近であり、対して天野八郎は徳川の幕臣とはなってもべつだん慶喜個人に忠誠心はありませんでした。

それで渋沢成一郎は慶喜の命令は絶対で、慶喜が新政府に恭順姿勢をしめしている以上、それに従うのが筋と考えました。一方天野八郎にとって大切なのは徳川であって、徳川を守るためなら戦も辞さぬ考えでした。

こうした渋沢・天野の立場・考え方の違いが対立を生んだものです。

「ばかな。江戸を火の海にするつもりか。まったく付き合いきれん…」

渋沢成一郎は同士を引きつれて彰義隊を去り、振武軍という部隊を結成。青梅街道沿いの田無に、ついで箱根ヶ崎村(東京都西多摩郡瑞穂町。米軍横田基地ちかく)に拠点を置き、新政府軍への抵抗をつづけていきます。

大村益次郎着任

この間、京都では岩倉具視・三条実美(さんじょう さねとみ)ら新政府首脳部が、江戸の大総督府に対する不満をたぎらせていました。

「彰義隊など、しょせんは烏合の衆であろう。なぜさっさと潰してしまわぬのか。西郷は何をしているのだ」

「生ぬるいですよ西郷のやり方は。戦を避けよう、避けようとしているのでしょう。結果、彰義隊のような不貞分子をのさばらせることになる」

新政府では、西郷ではらちが明かぬと新しい大総督府参謀を江戸に派遣します。

大村益次郎(1824-1869)。

靖国神社 大村益次郎像
靖国神社 大村益次郎像

後に明治陸軍の創始者となり、現在靖國神社に銅像が建っています。

長州の出身ではじめ医者を志します。23歳で大坂に出て緒方洪庵の適塾に学びました。

家業をついで医者となるもうまくいかず、伊予宇和島藩に招かれ西洋兵書の翻訳や軍艦の製造に携わります。

その後、江戸に出て鳩居堂という塾を開いて蘭学を教えていました。その評判を耳にした桂小五郎により長州に呼び戻されます。

高杉晋作の奇兵隊の創設にかかわり、第二次長州征伐では長州に10倍する幕府軍を殲滅し、勝利に導きました。自らも、石見との国境・岩州口で長州軍の参謀として石見浜田城を落城させています。

鳥羽・伏見の戦いの後、上洛し、陸海軍の事務を統括する軍防事務局で判事という役務に当たっていました。

大村益次郎は江戸下向を命じられると大坂の天保山から船に乗り、海路江戸へ向かいます。

ただし船酔いに弱く、遠州灘を越えたところで吐いてしまったそうです。

船は品川につきます。

品川で大村益次郎を出迎えた新政府の役人は、思わず息を飲みます。

「…これは噂にたがわぬ…」

靖国神社 大村益次郎像
靖国神社 大村益次郎像

大村益次郎の風貌には、大きな特徴がありました。おでこです。

「火吹き達磨」。

高杉晋作は、そうあだ名を付けたといいます。

「火吹き達磨」とは小さなだるま型の銅製の容器で、水を入れて熱すると口から火を出すもので、火鉢などに火をつける時に使いました。

大村益次郎の肖像を見ると、なるほどいかにもゴオーと口から火を出しそうな感じです。

「なんですかな。私の顔に何かついておりますか」「いえいえいえ、先生、どうぞ乗ってください」

こうして大村益次郎は、江戸城に迎えられ、大総督府参謀の任につきます。しかし、旧幕臣に対する宥和政策を取る海江田信義などと対立し、しばらく大村に活躍の場はありませんでした。

大総督府の方針

しかし京都の新政府首脳部は江戸の大総督府をギリギリしめつけてきました。なにをグズグズしているのだ。はやく彰義隊を討伐せんかッ!と。

ついに閏4月29日、大総督府参謀・林玖十郎(はやし くじゅうろう)が罷免されます。林玖十郎は旧幕府方に対する寛大路線を通してきた人物でした。それが罷免されたということは、

「これまでのようにはいかんぞ。徳川はとことん追い詰めてやる」という、新政府側の意思表示でした。

5月1日、大総督府は勝海舟らに委任していた江戸の市中取締の任を解きます。

同日、大総督府より上野寛永寺の彰義隊に対して、通告が届けられます。

一つ、彰義隊の江戸市中取締の役を解く。一つ、新政府によって彰義隊の武装解除を行う。

「なっ…こんなものに従えるか!」「おのれ、どこまで我々を見くびるのか」「戦だ。もう戦は避けられん」

とはいえこれで、彰義隊は法的根拠を完全に失い賊軍になったわけで、脱落する者もありました。

行き場を失った彰義隊はテロに走ります。

谷中や下谷あたりで、彰義隊士が新政府軍兵士を斬り殺す事件が相次ぎます。

佐賀藩士、鳥取藩士、薩摩藩士も殺害されました。

これまで寛大路線を取ってきた西郷隆盛も、見過ごせなくなってきました。

次回「彰義隊(ニ)上野戦争」に続きます。

解説:左大臣光永

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