藤原純友の乱(天慶の乱)
関東で平将門の乱が起こっていた頃…
瀬戸内海では海賊被害が続いていました。海賊の多くは租税や労役を逃れた農民が、船をうばって海賊になったものでした。
「なりゆきで海賊になんかなっちまったけどよう。大丈夫かなァ」
「安心しろ。なにしろ俺たちの大将の純友さまは、
藤原氏でも一番えらい、北家のご出身だぞ」
藤原純友
藤原純友は藤原氏の中でももっとも栄えた藤原北家(不比等の次男藤原房前を祖とする)の血筋です。しかし早くに父を失い地方官として生きることを余儀無くされます。
純友は四国伊予に伊予掾(いよのじょう)として赴任し海賊を討伐する任にあたります。
任期が切れた後も純友はそのまま伊予に住みつきますが、いつしか日振島(ひぶりしま)を中心に1000艘の舟を率いて略奪行為を働くようになっていました。
紀淑人(きのよしひと)の懐柔
承平6年、朝廷から派遣された伊予守紀淑人(いよのかみ きのよしひと)は、たちまちに瀬戸内海の海賊を鎮圧します。
「お前たちか瀬戸内の海を荒らしまわっていたのは」
「何とぞ、寛大な御処置を…」
「ふむ…ロクに土地も与えられず、まともな衣類も着れないでは
心がすさむのも無理からぬこと。お前たちに土地と衣類を与えよう。
もう一度まじめにやってみる気はあるか?」
「は、ははーっ」
天慶の乱
紀淑人の寛大な処置に、藤原純友もいったん矛を収めましたが…
「やはり俺には農民など性にあわん!!」
「ま…待て純友!」
時を同じくして関東では平将門が常陸国府を襲撃します。将門の噂を聞いて、藤原純友はますます勢いづきます。
「平将門とな。東国にもそのような気概のある男がいるのか。
一度会ってみたいものだ…」
藤原純友は将門と呼応するように摂津に侵攻、備前介藤原子高(びぜんのすけ ふじわらのこたか)を襲撃。
「目指すは京ぞ」
そのまま都へ攻め上る勢いでした。
朝廷では関白藤原忠平以下、大騒ぎになっていました。
「西国の純友と関東の将門が手を結ぶようなことになったら、
京都は一たまりもありません」
「うぬぬ…どうすればよいのじゃ」
寺々に読経を行わせ賊徒の鎮圧を祈らせましたが、そんなことではどうにもなりませんでした。
大宰府炎上
翌天慶3年、朝廷は小野好古(百人一首に歌を採られている小野篁の孫)を山陽道追捕使に任じる一方、藤原純友に従五位の官位を与えます。
「ふん。この純友を官位でつろうというのか。安く見られたものだ」
純友には官位による懐柔は通用しませんでした。淡路、讃岐、伊予、備前、備後、阿波、備中と次々と攻撃します。しかし940年関東で平将門が破られると関東方面の心配がなくなった朝廷は、すぐさま小野好古・源経基らを瀬戸内海へ派遣します。
小野好古・源経基らは藤原純友の本拠地伊予を攻撃。不意をつかれた藤原純友は海上に難を逃れ、九州大宰府へ向かいます。
かつて天智天皇が朝鮮・中国からの守りにために築かせた「水城」とよばれる堀と土塁からなる大宰府の守り。しかし、純友軍の前には何の役にも立ちませんでした。
「燃やせ!皆殺しにしろ!」
純友軍は大宰府になだれ込み放火、略奪を欲しいままにします。しかし小野好古・源経基らの船団に博多湾の海戦で敗れ、純友軍はその船団の大半を失います。
純友の最期
「くっ…今は退くのだ。ふたたび立ち上がる、その日のために」
しかし、再起の日はありませんでした。純友は小舟に乗って伊予に逃れましたが、6月20日警護士橘遠保によって子息・重太丸(しげたまろ)とともに捕えられ、斬られます。残党も討ち取られました。
これら承平・天慶年間(931-947)に起こった平将門・藤原純友による反乱をあわせて承平・天慶の乱と言っています。