蘇我・物部の争い
蘇我馬子は父稲目の志をついで、深く仏教を信仰しました。百済からもたらされた仏像を拝み、高麗からの渡来僧に仏法の教えを受けました。しかし、馬子は病の床についてしまいます。その上、またも疫病がはやり、人民が多く死にます。そこで物部守屋と中臣勝海(なかとみのかつみ)は敏達天皇に奏上します。
「どうして私どもの意見を受け容れてくださらないのですか。亡き父君の御世から今に至るまで、疫病が起こり人民が死に果てようとしています。これは蘇我の大臣が、仏法を信じているがためです」
「ううむ…もっともだ。仏法をやめよ」
「よし。大君のお許しを得た」
そう思った物部守屋はみずから寺に行き、床机に腰掛け、「打ち倒せ!!」ドカーン、ドカーン、ズズーーン「火を放てえっ」ゴォォーー…寺を壊し、燃やしました。
また仏像を集めて、難波の掘江に捨てさせました。また、蘇我馬子が世話をしていた尼僧たちのもとに佐伯造御室(さえきのみやつこみむろ)を遣わして、さかんに責めました。お前たちがロクでもないものを信じているから、国中に疫病が流行っているのだ。どうしてくれる。うう…そんなこと言われても。さあ!引っ張っていけ。きゃあああ。ひいい。こうして尼たちは法衣を奪われた上、監禁され、海石榴市(つばいち)の駅舎で鞭打ちに処せられました。
さらに続く蘇我・物部の争い
その後、天皇も物部守屋も痘瘡を患いました。また国中に疫病がはびこり、バタバタと死にました。蘇我馬子も病が治らないので、「仏の力に頼らずに病を治すことはできません。どうか、仏法に帰依することをお許しください」
「ううむ…わかった。ただしお前一人だけじゃ。他の者が仏法を信じることは許さん。他の者が仏をあがめることは、禁止じゃ」
天皇はこうおっしゃり、馬子に三人の尼を帰しました。他の人はダメというのはひっかかる者の、とにかく糸口ができたと馬子は喜んで、新たに精舎を造営し、尼たちをここに迎えました。
「ええい!馬子殿はまだ異国の神などあがめているのですか!」
ズカズカズカ
物部守屋が文句を言いに乗り込んできましたが、蘇我馬子は「大君からご許可をいただいております。お帰りください」堂々として、譲りませんでした。
敏達天皇の崩御
585年、敏達天皇が崩御します。蘇我馬子は葬儀の席で長い刀を帯びて天皇の生前の功績を讃える言葉(誄言 しのびごと)を奉ります。すると物部守屋が、
「おい馬子の奴を見ろ。まるで矢で射られた雀みたいじゃないか」
あざ笑いました。次に守屋の番となりました。
守屋は緊張して震えながら誄言を奉りました。
すると蘇我馬子は、
「鈴をつけたらよく鳴りそうじゃな」とバカにしました。
こうして、二人はしだいに恨みを抱くようになってきました。
忠臣・三輪逆
三輪君逆(みわのきみさかう)は、隼人(はやひと)らに命じて、もがりの警護をさせていました。敏達天皇の腹違いの弟・穴穂部皇子(あなほべのみこ)は天下を取ろうという野心があったので、「どうして亡くなった王のところに仕えて、生きている王のところに仕えないのか」言い放ちました。
敏達天皇が崩御した翌月、欽明天皇の第四子、用明天皇が即位します。
【欽明天皇~推古天皇まで】
敏達天皇の皇后であるカシキヤヒメはもがりの宮で夫敏達天皇の冥福を祈っていました。
(あなた、どうか安らかに…)
そこへ、敏達天皇の腹違いの弟・穴穂部皇子はもがりの宮を訪れ、
「中に、誰かいるか」と声をかけます。
穴穂部皇子は権力を継承するため、カシキヤヒメを犯そうと考えていたのでした。権力者が亡くなった時、その后を手に入れるのは、権力を継承することを意味していました。たとえば神武天皇が崩御した際、その子タギシミミノミコトは、皇后イスケヨリビメを強引に妻にしたという話が『古事記』に見えます。権力者の后を手に入れることは、その権力を継承することを意味していました。
「誰かいるのか」
もがりの宮の内側から、忠実な家臣・三輪君逆(みわのきみさかう)が返事をします。
「三輪君逆がおります」
「門を開け」
しかし忠実な家臣・三輪君逆は穴穂部皇子のたくらみを見抜き、門の内から答えます。
「お断りいたします」
「なに。断る。ばかな。もう一度言う、門を開け」
「お断りいたします」
「開けといったら開け」
七度言われても、三輪君逆は門を開きませんでした。
「無礼者めが!」
穴穂部皇子 三輪逆を滅ぼす
穴穂部皇子はこれを恨みに思い、三輪君逆を殺そうと考えます。そこで穴穂部皇子は物部守屋に命じて、軍勢をさしむけ三輪君逆の家を取り囲み、二人の息子ともども、攻め滅ぼしました。
これを知って、蘇我馬子は悲しみ嘆き、穴穂部皇子に申し上げました。
「なんということを。逆は忠実な奉公の者でした。それを、さしたる証拠もなく殺害するなど。天下が乱れるのも、遠くはありませんぞ」
「なにい。蘇我馬子。お前は何様じゃ。立場をわきまえろ。お前のような下郎が、天下を論ずるなど、片腹痛いわ」
穴穂部皇子=物部守屋 vs 泊瀬部皇子=蘇我馬子
こうして物部守屋は穴穂部皇子と結びつきを強めていき、一方蘇我馬子は初瀬部皇子と結びつきをつよめていきました。どちらも、「次期天皇にはこの人を」と思うのでした。
用明天皇 崩御
翌587年、用明天皇は病にかかります。そしておっしゃいます。吾は仏に帰依しようと思うと。なにをおっしゃいますか。わが国は古来八百万の神々をいただく国です。異国の神などあがめては、国つ神のお怒りにふれますぞ。すぐに反対したのは物部守屋です。一方、蘇我馬子は、「すばらしいことです」と大賛成しました。
結局、内裏に仏法の師として豊国法師(とよくにほうし)という僧を入れることになりました。物部守屋は横目でにらんでチッと舌を打って怒りました。
天皇の痘瘡はいよいよひどくなり、在位2年にして、お隠れになりました。
蘇我馬子 穴穂部皇子を滅ぼす
587年、用明天皇がお隠れになると、さっそく物部守屋は穴穂部皇子のもとに人を遣わして、「皇子さまといっしょに淡路で狩がしたいのです」ともちかけます。あなたを次期天皇に擁立するために、打ち合わせをしたいです、ということです。
しかし、この動きは蘇我馬子に漏れていました。蘇我馬子は敏達天皇の后・カシキヤ姫らと計り、軍勢を整えて穴穂部皇子の館に押し寄せます。
兵士が高楼の上に登って穴穂部皇子の肩をずばと斬ると、ぐっはああああぁぁ、どさーっ。地面に落ちたた穴穂部皇子はしかし、足を引きずり、引きずり、傍らの家屋に逃げ込みますが、火を放てッ。ひゅん、ひゅん、ひゅん。もはやこれまでか、ガクッと息絶えてしまいました。
こうして、敵・穴穂部皇子をのぞいた蘇我馬子。残る敵は物部守屋一人ということになりました。