蘇我馬子の野望

蘇我馬子と物部守屋の対立

「私が大臣になったからには、
父の願いであった仏教による国造りを
実現させるのだ」

572年、敏達天皇(びだつてんのう)即位と同時に
蘇我馬子は大臣(おおおみ)に任命されます。

欽明天皇~推古天皇まで
【欽明天皇~推古天皇まで】

蘇我馬子は6世紀なかば、
蘇我稲目の息子として生まれました。

蘇我稲目以前の蘇我氏の由来はよくわかっていませんが、
渡来人と交流があり、先祖には韓子(からこ)や高麗(こま)の
名が見られます。

蘇我稲目は仏教伝来直後の日本にあって、
熱心に仏教を取り入れようとしました。

蘇我稲目は仏教を取り入れることで、大陸の進んだ文化や
制度をも取り込むことができる、と考えたのです。

しかし、日本古来の宗教を重んじる物部尾輿との間で、
激しい対立が起こりました。

蘇我氏と物部氏の対立
蘇我氏と物部氏の対立

「仏教を取り入れることで、大陸の文化にも近づけるのです!」

「倭国は古くから八百万の神々がまします国。
異国の神を拝むなど、とんでもない!」

蘇我稲目と物部尾輿の対立は、
それぞれの息子である蘇我馬子、物部守屋まで
引き継がれます。

蘇我馬子は父・稲目の志を継ぎ、
仏教を中心にすえる「崇仏派(すうぶつは)」の立場から
政治をおしすすめます。

一方、大連(おおむらじ)の
物部守屋(もののべのもりや)は
日本古来の神道をかかげ仏教廃絶を解く
「廃仏派(はいぶつは)」でした。

これは単なる宗教論争ではなく、朝廷の主導権を
蘇我、物部どちらが握るかという勢力争いでした。

587年、用明天皇が崩御すると、物部守屋は
穴穂部皇子(あなほべのみこ)を次の天皇として掲げます。

蘇我馬子はいち早くこれを察知。こちらは穴穂部皇子の弟・
泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を次の天皇として掲げます。

穴穂部皇子=物部守屋 vs 泊瀬部皇子=蘇我馬子
穴穂部皇子=物部守屋 vs 泊瀬部皇子=蘇我馬子

こうして物部守屋と蘇我馬子の対立は一気に高まります。

ついに蘇我馬子は物部守屋の擁立する
穴穂部皇子の宮に軍勢を差し向け取り囲み、
穴穂部皇子を殺害します。

翌月、蘇我馬子は泊瀬部皇子、廐戸皇子(聖徳太子)らとともに
河内衣摺(きぬずり)の物部守屋の舘に押し寄せます。

聖徳太子の四天王像

物部守屋は朝廷で軍事部門の専門家でした。

「身の程知らずのクズどもがッ!!」

物部守屋がえのきの木の上から
雨のふるようにひょうひょうと矢を放てば、
蘇我の軍勢は、

「ぐはっ」「ぎゃぁあ」

次々と射殺されていきます。

「退けっ、いったん退けーーッ!」

物部守屋の前に蘇我の軍勢は苦戦を強いられ
三度まで撃退されます。

蘇我の軍勢は退いて全軍を休め、
反撃の機会をうかがっていました。

その中に、廐戸皇子は鎧のままで
小刀でしきりに何か彫っていました。

蘇我馬子が声をかけます。

「皇子さま何をしておられるのですか」

「あっ馬子さま。見てください。
けっこう上手くできたと思うんですが」

廐戸皇子が差し出したのは、
木彫りの四体の仏像でした。

「ほう四天王像ですか!皇子さまは手先が
御器用ですなあ!」

「この戦、必ず勝てるようにと。もし勝たせてくださるなら、
この地に立派なお寺を立てますと」

「それはよい!私も祈らせていただきます。助け護って
勝利させてくださるなら、立派な寺を建てます」

廐戸皇子と蘇我馬子は
小さな木彫りの四天王像を前に、手をあわせました。

物部守屋の最期

四天王のご加護を得て、
蘇我馬子率いる軍勢は再度、
物部守屋の舘に攻め寄せます。

物部守屋はえのきの木に昇り、攻め寄せる蘇我の軍勢に
雨の降るように矢を射かけます。

「ふははは。バカどもが!!」

物部守屋の放つ矢の前に、
蘇我の軍勢は次々と射殺されていきます。

「ええい守屋め。やりおる。だが当方も負けてはおらぬぞ。
なにしろ四天王のご加護があるのだ!」

蘇我馬子の舎人、迹見 赤檮(とみのいちい)は、きりりと矢を
引き絞ってひょうと放ちます。その矢が、
木の上の物部守矢をふつっと貫きます。

「ぐはーーッ!」

物部守矢はまっさかさまに木から
射落とされ、息絶えました。

「討ち取ったぞ。物部守屋をーーッ!!」

ワアアアと鬨の声が上がります。

勝利の後、厩戸皇子は誓い通り河内の地に
四天王寺を建立しました。また蘇我馬子は飛鳥の地に
法興寺(飛鳥寺)を建てました。

崇峻天皇とイノシシ

587年、物部守屋を滅ぼした蘇我馬子は
泊瀬部皇子(はつせべのおうじ)を
大王として即位させます。

第32代崇峻(すしゅん)天皇です。

(この時代、まだ「天皇」という呼び方はありませんが、
便宜上「天皇」として話をすすめます)

崇峻天皇はこうして、蘇我馬子の後ろ盾で大王となりました。
しかし、政治の実権は蘇我馬子が握っていました。

崇峻天皇は、
だんだん不満が高ぶってきます。

「おのれ馬子め…大王であるワシをないがしろにしおって…」

ある時、崇峻天皇のもとに
イノシシが献上されます。

「ほう。まるまると肥えたイノシシじゃのう」

しかし、崇峻天皇はそのイノシシを見ていて、
だんだんムカムカしてきました。

蘇我馬子はずんぐりむっくりと太っていて
背が低く、首が短く、イノシシに似ていたようです。

なので、イノシシを見ているうちに
憎き馬子の顔が重なってきたんですね。

「いまいましい…この猪の首をはねてしまうように、
一息にあの男の首をはねてしまえば、
どんなに清々するか…」

臣下の者たちは言い合います。

(なんと恐ろしい…!今をときめく蘇我馬子に逆らったら、
どんな目にあわせられるか…)

崇峻天皇の言葉はすぐに
蘇我馬子の知るところとなります。

「なに、ワシを殺すだと?
いい根性ではないか。返り討ちにしてくれるわ」

蘇我馬子はすぐに崇峻天皇のもとに
刺客・東漢駒(やまとのあやのこま)を送り込み、
ズバアと斬り殺します。

592年11月の出来事でした。

日本の歴史の中で天皇が臣下に殺害されたことがハッキリしているのは
この崇峻天皇一人だけです。

三者体制

崇峻天皇を殺害した蘇我馬子は、593年、
先々代の敏達天皇の皇后・
額田部皇女(カシキヤヒメ)を即位させます。
日本初の女帝・推古天皇です。

同年、廐戸皇子が推古天皇の摂政に任じられ、
ここに、推古天皇・廐戸皇子・蘇我馬子
三者体制の時代が始まります。

蘇我馬子を葬ったとされる石舞台古墳
蘇我馬子を葬ったとされる石舞台古墳

蘇我馬子を葬ったとされる石舞台古墳
蘇我馬子を葬ったとされる石舞台古墳

蘇我馬子を葬ったとされる石舞台古墳
蘇我馬子を葬ったとされる石舞台古墳

蘇我馬子を葬ったとされる石舞台古墳
蘇我馬子を葬ったとされる石舞台古墳

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解説:左大臣光永