信西と藤原信頼
後白河天皇は29歳になってようやく即位し、それまでは今様(流行歌)の練習には熱心でしたが、まともな帝王学も勉強してはおられませんでした。保元の乱に勝利したとはいえ、そんな後白河天皇が政治を行えるわけもありませんでした。
「信西、政治のことはすべてそちに一任するぞ」
「ははっ」
後白河天皇の下で実際に政治を行なったのが側近の入道信西です。
入道信西その人物
信西(1106-1160)。出家前の俗名を藤原通憲(ふじわらのみちのり)と言いました。藤原といっても摂関家ではなく、不比等の長男武智麻呂を祖とする藤原南家の出身です。中流貴族であり、学者の家柄でした。
頭脳明晰で「諸道に達せる才人なり(『尊卑文脈』)」と評されていますが、家柄が悪いために出世できませんでした。失望した通憲は39歳で出家し、信西と名乗りました。おそらくこの段階では野心などほど遠かったでしょう。
信西は藤原頼長と並び立つ学識だったと伝えられます。
頼長が経学・義学を重んじて史学を軽んじたことと逆で、信西は史学を重んじました。
ある時鳥羽上皇が頼長と通憲(後の信西)を具して、四天王寺に参詣されました。その時鳥羽上皇は四天王寺のゆらいなどについて尋ねると、お供の者誰も答えられなかったのに、頼長も答えられないのに、通憲だけはスラスラと答え、周囲を感嘆させました。
『続古事談』によると、ある時通憲が唐人と中国語で会話しているのを見て人がびっくりしてたずねると、「俺はそのうち遣唐使にでも召されるかと思って勉強していたんだよ」と答えたといいます。
それだけの学がありながら、通憲は 家柄が低いために少納言にしか上がれず、鬱々とした日々を過ごしていました。そこで出家を考えた通憲は出世できないわが身を嘆き、頼長に言います。
「私が出家したら、へたに学問があるために身を滅ぼしたと世間の人は言うでしょう。どうかあなただけは、学問をやめないでください」
「おお…通憲殿」
さしもの宇治の悪左府藤原頼長も、涙を流したと頼長の日記『台記』に記されています。
(しょせん俺の家柄では学問をしてもたかが知れている。
世を捨てて、坊主になろう)
しかし1155年近衛天皇が崩御し後白河天皇が即位すると、信西の運命は一転します。信西の妻朝子が後白河天皇の乳母を務めていた関係で、信西は後白河天皇に重用されるようになっていきます。
信西による戦後処理
信西が行なった保元の乱の戦後処理は苛烈を極めました。信西は敵味方に別れて争った源平の武士に、身内同士で処刑を行わせました。義朝などは、敵対した実の父為義を斬らされました。想像するも無残な話です。
保元の乱後、信西は反対勢力の排除に乗り出します。第一に摂関家。保元の乱で敗れた藤原忠実を洛北知足院に幽閉し、忠実・頼長父子の所領を没収します。
勝利した後白河天皇についていた藤原忠通に対しても容赦ありませんでした。信西は忠通から藤原氏の氏の長者の任命権を奪い摂関家を弱体化させていきます。
続いて大寺社・大貴族の所有する荘園も容赦なく没収していきます。
信西はこうして敵対勢力の弱体化をはかる一方、息子たちや一族を要職につけ権力の地盤を固めます。日に日に権力を高める信西に対して、反対勢力の恨みの声も大きくなっていきました。
(おのれ信西ばかりいい思いをしおって…)
信西の功績 大内裏の復興
とはいえ信西が専横をおこなったロクでもない人物であったかというと、正反対でした。きわめて聡明な判断力で常人では考えられない仕事を短期間でこなしていきました。
たとえば大内裏の再建です。
平安京の大内裏は桓武天皇がお開きになって約170年後の天徳4年(960年)に火事で焼失しました(天徳内裏歌合が行われた時代)。これは一年ほどで再建されましたが、その後も火事が絶えなかったため、外戚の館に内裏を遷します。これを里内裏といいます。
以後、予算がなかったことから大内裏は復活していませんでした。そこで信西は寺社・貴族・源平両方の有力武士からも費用を取り立て、大内裏の復活事業をはじめます。2年で実際に完成しました。
その間、信西は政務に夜中まで没頭し、信西の館では夜中にも澄んだそろばんの音が鳴り響いていたと伝えられます。
後白河院政の開始
保元三年(1158年)後白河天皇は譲位し上皇となり息子の守仁親王が即位して二条天皇となります。もともと後白河が即位したのは亡き鳥羽上皇に嫁いでいた美福門院得子の意向でした。美福門院得子は守仁親王を養子としており、いずれ即位させたかったのです。
後白河天皇を即位させたのは、その子守仁親王を即位させるまでのつなぎでしかありませんでした。今こそ美福門院の意向が成立したわけです。
「ふふふ…これでわらわの思い通り。そして信西、
そなたの世ともなろうなあ」
「門院さま、また御冗談を…」
酒酌み交わす美福門院と信西。そんな図があったかどうかわかりませんが、上皇となった後白河は内裏を出て、三条東殿に移り、院の御所と定めます。側近の信西も後白河上皇に従います。
「信西、ますます頼みにしておるぞ」
「上皇さま、この信西、上皇さまのために
あらゆる努力を惜しみません」
こうして後白河上皇の下、信西はますます勢いを伸ばしていきました。
藤原信頼 その出自
今や飛ぶ鳥を落とす勢いの信西に対し、周囲の不満は日に日に高まっていきました。
藤原信頼(1133-1160)は信西と並び後白河上皇の寵愛を受けていました。不比等の次男房前を祖とする藤原北家の出身で、かつて一条天皇の時代に権勢をほこった藤原道長の流れを汲みます。家柄は申し分なしです。
父の藤原忠隆も鳥羽院の近臣で、信頼は順調に出世していきます。後白河上皇に仕えるようになってから周囲から「あさましき程の寵愛あり」と言われるほどの寵愛を受けます。男色関係にあったとも見られています。
信西と藤原信頼の対立
しかし時は信西の全盛期。後白河上皇は何かと信西を可愛がります。
「ふん、ふんっ、家柄は俺のほうが上なのに。
信西の奴…上皇さまのご寵愛をいいことに、えらそうに」
不満をたぎらせる信頼。そんな信頼を、信西も嫌い、後白河上皇に進言します。
「上皇さま、あのような者を重用するのはおやめください
信頼はいつか謀反を起こします」
信頼はかねてから右大将への昇進を強く望んでいました。しかし、信西が後白河法皇に進言により、昇進をはばまれてしまいました。
安禄山絵巻
信西は後白河上皇が藤原信頼を寵愛するのをあぶないと見て、信頼を唐で反乱をおこした安禄山になぞらえました。そして『安禄山絵巻』三巻をつくって後白河上皇に贈り、注意をうながしました。
こうしたことを知って信頼は怒りに震えます。
「おのれ信西。もう許さん。謀反?上等ではないか。
やってやる」
反信西派の結束
信西憎しの気持ちを抱いていたのは信頼だけではありませんでした。左馬頭義朝は保元の乱の恩賞で左馬頭に任じられ武士として昇殿を許され、さらなる昇進を望み、信西の息子にわが娘を嫁がせようとします。
しかし信西は、
「家柄が違いすぎる。寝言もたいがいにするがよい」
義朝の申し入れを断りました。その上、保元の乱の戦後処理では信西によって実の父・為義を斬らされた恨みもありました。
「おのれ信西。もう許さん」
信西に恨みを持つ義朝は、同じく信西に恨みを持つ信頼に結び付きます。また院近臣藤原成親、大納言藤原経宗、検非違使別当藤原惟方らも信頼につきました。
こうして信西憎しの者が結束し、信頼派は大きくなっていきます。