新選組 第37回「第二次長州征伐」

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士気あがらぬ長征軍

慶応元年(1865年)閏5月24日。

将軍徳川家茂一行は、大阪城に入ります。

幕府からの要求に応じない長州に対し、
今度こそ武力行使を行うということで、
将軍徳川家茂みずから出馬というふれこみでした。

新選組からも今回の遠征に加わるため、
谷三十郎以下二十名あまりが
参加しましていました。

しかし征長軍の士気はきわめて低いものでした。

どの藩もあいかわらずの財政難で、長州征伐どころではなかったからです。
個人的に長州に怨みがあるわけでもなし、
むしろ幕府の横暴の前にたった一藩で反旗をひるがえした長州に
内心「でかした」と思う者も多くありました。

「長州と幕府のケンカだろうが。
勝手にやってくれよ。つきあいきれん」

それが駆り出された諸藩の兵士たちの本音であり、
士気が上がろうはずもありませんでした。

将軍徳川家茂以下、幕府首脳部も長州に宣戦布告したものの、
実は、本気で戦うつもりはありませんでした。

昨年暮の第一次長州征伐のように、外交によって
講和に持ち込むことを期待していました。

長州には石高を減反するなどの軽い処置ですませよう。
それで、幕府の面子は保たれる。

むこうもわざわざ幕府の大軍と戦火を交えたくはなかろうと。

しかし、高杉晋作は幕府からの使者に告げました。

「一石たりとも幕府にわたすつもりはござらぬ。
不服とあらば、刃を交えるまで」

元治元年(1864年)12月の高杉晋作のクーデターによって
長州から幕府恭順派は一掃され、
以前の弱腰外交とは
まるで違うことに、なっていたのでした。

幕府首脳部は困り果てます。

「ほんとうに長州と戦うのか?」
「正直、今の幕府に長州と戦うような余裕はありませんぞ」
「しかし、いったん始めたものを止めるわけにもいかぬ。
それこそ、幕府が諸藩からなめられてしまう」
「ううむ…気がすすまがぬのう」

開戦

慶応2年(1866年)6月、長征軍はしぶしぶ
長州への攻撃を開始しました。

将軍徳川家茂が大阪城入りしてから
実に1年以上が経過していました。

幕府軍15万が、四つの国境から長州に迫ります。

いったん戦端が開いてみると、、
わずか1万に過ぎない長州軍はめっぽう強く、
幕府軍は各地で連戦連敗を喫します。

理由はまず士気の問題。

やる気の無い幕府軍に対し長州軍は祖国を守るために
最後の一兵になっても戦うという死にもの狂いの覚悟がありました。

次に装備の問題。

幕府軍は旧式の火縄銃に槍を持ち重い鎧をまとい、
戦国時代からそう変わらない、時代遅れの装備でした。

対して長州軍は最新式のゲベール銃と
身軽な西洋式の軍服をまとい、
機動力に雲泥の差がありました。

そして指揮官の軍略です。高杉晋作・村田蔵六の指揮のもと、
進むべき所は進み、退くべき所は退く、
統制の取れた動きでした。

結果、数に十五倍の幕府軍をそこかしこに破りました。

幕府軍 撤退

そんな中、将軍徳川家茂が大阪城に
病死したという知らせが小倉の総督府に届きます。

「なんと…大樹公が…」

戦意を喪失した総督小笠原長行は、
戦線を離脱し、大阪へ引き上げていきます。

「大将がいないのに戦なんかやってられるか」
「俺もうやめた」
「やってられねえ」

もともとやる気のなかった諸藩の軍勢は、
われもわれもと勝手に引き上げていきました。

最後に小倉藩だけがふみとどまって
長州と向かい合いますが、
8月1日、かなわじと見て小倉城に火を放ち撤退します。

燃え上がる小倉城を望みながら、
長州の陣営では

「勝った!勝ったぞ!俺たちは幕府に勝ったんだ!」

ワァーーー、ワァーーー

わずか一万の長州軍が幕府軍十五万を敵にまわして
勝利した。

その評判はすぐに全国に広まり、
各地の尊王攘夷派の志士たちは、がぜん勢いづきます。

「よくやった!長州」
「もはや徳川の世は終わった」

という空気の中、京都三条大橋のたもとでは、
一つの事件が起ころうとしていました。

次回「新選組 第38回「三条制札事件」」お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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