新選組 第29回「天王山の戦い」

こんにちは。左大臣光永です。

1月も後半に入りますね。いかがお過ごしでしょうか?
私は今週末、静岡で新選組について講演するので、
資料を整理しているところです。

2014年にこのメルマガではじめて新選組について語ったのですが、
当時より今は新選組についての資料がずっと充実してきており、うれしいです。

というわけでは本日は、「天王山の戦い」です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

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元治元年(1864)7月19日未明、長州は軍勢を率いて京都御所に攻め寄せました。藩主毛利父子の冤罪を晴らし、同志の敵である薩摩・会津・新選組などを征伐する、それが彼らの言い分でした。蛤御門、乾御門、寺町御門など、御所の各御門で長州藩兵と、幕府軍の間で戦闘が行われましたが、長州はそのいずれの地点でも破れ、撤退していきました。

元治元年(1864年)7月21日、

幕府軍の長州への反撃が始まりました。

神保内蔵助(じんぼくらのすけ)率いる会津藩兵と新選組が山崎方面へ出撃し、長州勢を攻めます。

ドゴーーン

ぎゃあああ

ドガーーン

ひいいいぃぃぃ

山崎の長州勢を率いるのは久留米藩士・真木和泉守。

「真木和泉はここ天王山にて討死の覚悟である。志を同じくする者は残って運命を共にせよ。そうでない者はこれより馬関(下関)に落ち延び、反撃の準備をせよ」

天王山 遠景
天王山 遠景

天王山 登り口
天王山 登り口

そこで長州勢の多くは山崎街道(西国街道)から長州へ向けて落ち延びていきます。残った者真木和泉以下17名は天王山を枕に討死の覚悟を決めます。

天王山へ

新選組はいったん竹田街道沿いの銭取橋の陣営にもどって隊を整えると、すぐさま会津藩兵とともに山崎を目指します。

近藤勇以下、沖田総司、永倉新八、原田佐之助、井上源三郎以下40名弱。人数の少なさから来る機動力のよさを生かして、まっさきに天王山中腹の宝積寺(ほうしゃくじ)に集結します。

宝積寺
宝積寺

「一気に攻め落とせーーーッ!!」

けわしい山道を駆け上がる新選組隊士たち。7月の炎天下のことで、みな甲冑を脱ぎ、軽装になっていました。

天王山
天王山

「新選組に先を越されるなーーーッ!!」

後に続く薩摩藩兵・会津藩兵。

山道のそこかしこに和式の木製大砲が打ち捨ててありますが、人の姿は見えません。

「さては山頂にて立てこもり一気に攻めかかるつもりだな。小癪な」

新選組隊士40名弱。エイオウと声をかけあいながら細い山道を駆け上がり、山頂まであと二・三町という地点までさしかかった。その時、

山頂の一角から、金色の烏帽子に直垂を着た人物が、右手に金の采配を持ってすうっと現れます。おおっ、ああっ!?あっけにとられる新選組隊士たち。見るとけっこうな年配です。男の後ろにズラッと和式の木製大砲をかまえた決死隊16名が並びます。男はきいっと眼下をにらまえ、

天王山山頂
天王山山頂

「討手の臣、いずれの臣なるか。まずお互いに名乗ってから戦おうではないか。かく言う我は長門宰相の臣・久留米藩士 真木和泉。名乗れ名乗れーー」

真木和泉は采配を上げて、しきりに招きます。

真木和泉

「なんだあいつは!」
「戦国時代と勘違いしてんじゃねえか」
「おいオッさん、無理すんな」

ガヤガヤ言う隊士たちを抑えて近藤勇が、

「徳川の旗本・新選組近藤勇」

続いて会津勢から

「会津藩 神保内蔵助」

近藤、神保の名乗りを受けて真木和泉は、

何か、詩を朗詠したといいます。詩の内容までは聞き取れなかった…と、永倉新八の手記に書かれています。

吟じ終わって真木和泉は、

「エイ、エイーーー」

勝どきを上げ、続いて16名の決死隊も

「エイ、エイーーー」

勝どきを上げ、

ドン、ドンドンドンドン、ドンドン、ドン

一気に大砲を放ちました。

「うわああ」

あっけにとられていた新選組隊士たちの中に、永倉が腰に、原田が脛に傷を負ってしまいました。

「小癪な。撃てーーーッ!!」

ワァーー、ワアーーー、

ドン、ドンドンドン、パパーンパパーン

双方小銃を放ち、天王山の山頂付近は火薬の煙が立ち込め、空中で弾と、弾がぶつかりあうほどの勢いの中、乱戦は小一時間にも及びますが、真木和泉以下決死隊17名は弾を撃ち尽くすと、

「退けーーーい」

陣小屋の中に駆け込み、立てこもります。

「皆、ここまでよく戦った。帝への奏上が叶わなかったことは返す返すも無念だが、諸君の戦いにより、長州の義は後世にしっかりと示されたはずである」

そして陣小屋に火薬をしかけ、ドン、ドンドンドンドン…ゴオーーー…燃え盛る炎の中で、全員切腹して果てました。炎がやんだ後、焼け跡の中に、烏帽子をかぶり直垂をまとった人物が切腹しているのを見つけ、遺体を丁重に取扱いました。

「なんという見事な最期じゃ…」

新選組も会津藩兵も、思わず声をもらしました。中にも近藤勇は、目をぱちぱちさせて、真木和泉の死に強い衝撃を受けていました。

(これが武士というものか。俺は、こんなふうに潔くできのるだろうか…)

天王山 十七烈士の墓
天王山 十七烈士の墓

ワアーーー、ワアーーーー

天王山山頂に勝どきが上がります。

ここに長州勢は京都より一掃されました。

その頃京都では炎が燃え上がり、3万戸を焼いていました。池田屋事件でせっかく長州の焼き討ち計画を食い止めたのに、結果として同じことになってしまったのです。

(ああ…なんということだ…)

肩を落とす新選組隊士たち。

幸いにも壬生界隈にまでは火は及んでいなかったので、隊士たちは屯所に到着しました。池田屋事件で凱旋した時とはまるで違う、なんとも心苦しい帰還でした。

禁門の変について

元治元年(1864)7月19日から21日にかけての「禁門の変」。

この出来事は、長州によるテロです。

これは現在の感覚でもテロですし、当時の感覚でもまごうかたなきテロでした。

真木和泉や来島又兵衛、福島越後らの、ひたぶるな狂気…何としても藩主にかけられた冤罪を晴らしたいという熱意は、一種感動的で、カッコよくもありますが、だからといって彼らの愚かさを肯定してはならないと思います。

そもそも長州は「尊王攘夷」を掲げていたんですよ。

「尊王」とは天皇を敬うことです。尊王と言ってる長州人が、御所に押し寄せ、砲撃する。やってることメチャクチャです。

彼らの中では、「我々は天皇や朝廷を攻撃しているのではない。天皇のおそばで、天皇をたぶらかしている薩摩・会津などを取り除こうとしたのだ」という理屈で正当化されていました。

しかし実際にやったことは御所を砲撃し、天皇の宸襟を悩まし奉ったことですので、まったく、同情の余地が無いです。バカなことしたなと思います。

この四年後に長州が政権を握りますが、政権を握った長州にとって、かつて長州が御所に発砲し、朝敵となった事実は、非常に不都合でした。だから我々は朝廷に弓引いたのではない。天皇のおそばでたぶらかす幕府のロクでもない連中を征伐したのだと、声高に宣伝しました。

嘘とごまかしの長州政権です。

新選組が池田屋事件で殺しまくった、残酷の極みだ、池田屋事件によって明治維新が一年遅れた、なんて言いますが、新選組が池田屋でやったことは、あくまでも警察的な仕事であり、公務員が合法的に職務果たしただけなんですよ。

長州のように非合法に御所に押し寄せテロによって威嚇し破壊行為をはたらいたこととは、まったく次元が違います。真木和泉らのひたぶるな熱意は一種感動をよぶものもありますが、彼らの愚かさを肯定してはいけないと思います。

好評につき再入荷 日本の歴史【幕末の動乱】 
http://sirdaizine.com/CD/His10.html

嘉永6年(1853)のペリー来航から、慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いまで語った解説音声とテキストファイルです。メディアはdvd-romです。楽しみながら幕末史の流れを学ぶことができます。

京都公演【紫式部】2/1開催
http://sirdaizine.com/CD/MurasakishikibuInfo1.html

一条天皇中宮彰子に仕えた女房。『源氏物語』の作者。おそらく日本でもっとも有名な女流作家。藤原道長や清少納言とならび、平安時代、平安京の歴史と文化を語る上で、欠かせない人物の一人です。『紫式部日記』や『紫式部集』を声を出して読みながら、謎の多い紫式部の生涯に迫ります。

解説:左大臣光永

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