親鸞の生涯(七)善鸞義絶事件

こんにちは。左大臣光永です。

東本願寺の北側の堀が、とてもきれいです。風が吹いてさざなみが立つと、堀を泳いでいるコイが、まるで寒天の中に埋め込まれた和菓子のように見えます。しかもスイスイ泳いでいる。ふしぎな感じです。

本日は「親鸞の生涯(七)善鸞義絶事件」です。

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京都の親鸞

天福元年(1233)以降、親鸞は妻恵信尼と子供たちとともに京都に戻ってきました(正確な時期は不明)。

京都にもどった親鸞は、あちこちに渡り歩きましたが、やがて五条西洞院(ごじょうにしのとういん)に居を定めました(『御伝抄』)。

現在、西本願寺の少し北側に五条通が走っていますが、これは豊臣秀吉の整備によって五条通となったものです。元の五条通は今の五条通から北へ二本目の松原通をいいました。つまり親鸞は今の西洞院松原(にしのとういんまつばら)に居を定めたことになります。

このあたりは今でも狭い道に町家が密集し、いかにも旧きよき京都の風情があります。

親鸞聖人洛中寓居跡(光圓寺)
親鸞聖人洛中寓居跡(光圓寺)

親鸞聖人洛中寓居跡(光圓寺)
親鸞聖人洛中寓居跡(光圓寺)

京都に戻ってからの親鸞がどんな活動をしたのか?ほとんどわかりません。

しかし京都では関東にいた頃ほど熱心に布教活動は行わなかったようです。京都における親鸞の門弟は八人と記録されています。いかにも少なく思えます。

しかも八人のうち二人は弟。一人は従兄弟。一人は末娘覚信尼の夫、つまり娘婿です。あとの一人は関東で弟子になってそのまま親鸞に着いて来ました。残る三人の詳細は不明です。ここから見るに、京都に戻ってからの親鸞は、「新規開拓」はほとんどしなかったと思われます。

その一方で、親鸞は関東に残してきた門弟たちには熱心に消息(しょうそく)=手紙を書き送っています。

親鸞の消息(手紙)の多くは門弟たちの教義についての質問に答えたものや、門弟たちが勝手に教義を解釈するのをいましめたものです。43通が現存します。

また親鸞は短い漢文による聖教(しょうぎょう。仏の教えを記したもの)をつくって、これを専修念仏信仰の支えとせよと関東の門弟たちに送っています。
噛んでふくめるように、同じことを何度も繰り返している部分もあります。

こうしたことから見るに、親鸞は京都で新たに門弟をふやすのではなく、すでにいる関東の門弟たちを大事にすることに、焦点をしぼったようです。

恵信尼との別居

親鸞が関東から京都にもどった時点では恵信尼といっしょだったと思われます。しかしその後、二人は別居しました。

建長6年(1254)の『恵信尼消息』には、すでに恵信尼が親鸞のもとを離れ越後に暮らしていることが確認できます。

恵信尼は三人の子、小黒女房・信蓮坊明信・益方有房をともなって越後に下り、八人の下男に囲まれて暮らしました。そして親鸞の死に目にもあえませんでした。

なぜか?

別に不仲になったわけではありません。

恵信尼は実家である三善家の越後の領土を相続し、管理する必要があったからと思われます。

三善家には管理人を雇うほどの余裕はなかったのでしょう。それで恵信尼は親鸞と別れ、みずから越後の所領地に管理人として赴かなくてはならなくなったと思われます。

火事

建長7年(1255)12日10日夜、五条西洞院の親鸞の家は、「せうまう」…火事にあいました。

「ああ…なんてことだ…」
「父上…!」

この時妻恵信尼と小黒女房・信蓮坊明信・益方有房は越後にいましたが、末娘の覚信尼は父親鸞とともに五条西洞院の家にいて、火事にあいました。越後からの恵信尼からの手紙などもみな燃えてしまい、親鸞・覚信尼親子はさぞ落胆したことでしょう。時に親鸞83歳。

12月10日。寒い時期です。ぐずぐずしてたら凍え死んでしまう。親鸞はすぐに新しい住まいを探しました。そこで天台宗の僧をやっている弟の尋有(じんう)を頼りました。

親鸞は三条富小路の尋有の住房「善法坊(ぜんぽうぼう)」に移りました。以後、弘長2年(1262)90歳で亡くなるまで7年間を善法坊に過ごしました。

「善法坊」の場所についてはいくつか説があります。しかし一般には現在の京都市役所の西、御池通(おいけどおり)柳馬場(やなぎのばんば)の京都市立京都御池中学校付近とされています。

見真大師遷化之旧跡
見真大師(親鸞)遷化之旧跡

善鸞義絶事件

さて親鸞なき後の関東では。親鸞が去って20年もすると門弟たちの中に勝手なことをする者が出てきました。

たとえば善乗坊という門弟は、どうせ阿弥陀さまが救ってくれるのだから、現世では何をするのも自由だ。めちゃくちゃやったもん勝ちだと言いふらしました。この考えを「造悪無碍(ぞうあくむげ)」とか「本願誇り」といいます。

また、自分たちは阿弥陀さまの救いが約束されているのだからと、念仏以外の行を行う仏教者をバカにし、日本古来の神々への信仰をあざける者もいました。

「そんなことは、決してしてはならない」

建長4年(1252)2月24日、親鸞は手紙を書いて常陸の門弟たちを戒めました。しかし一部の専修念仏者の暴走は止まりませんでした。ついに鎌倉で裁判を起こされるまでになります。親鸞は頭をかかえます。

どうにも手紙だけでは細かい意図が伝わらない。やはの面と向かって、教義の勝手な解釈はいけないと、門弟たちをたしなめたいところでした。

「善鸞、行ってくれるか」
「父上、私にお任せください」

親鸞は息子の慈信坊善鸞を代理人として遣わすことにしました。親鸞自身が行きたいのは山々ながら、80歳すぎの高齢で、関東への旅は現実的にムリでした。そこで息子の善鸞を遣わしたのでした。

善鸞の生まれた年は不明なので年齢もわかりませんが、親鸞の年齢からいって、50前後だったと思われます。

善鸞は関東へ赴任するや、精力的に調査を行いました。

「ひどいな…」

善鸞が見たところ、関東の門弟たちの中には、神仏を軽んじ、造悪無碍を行っているものが多々ありました。しかもそれを親鸞の教えなのだと言いふらしていました。こうした行いに対し、領家・地頭・名主が念仏禁止に動き出していました。善鸞は関東の様子を書状にしたため、京都にいる親鸞に送りました。それに対して親鸞は、

「神仏を軽んずることも、造悪無碍も私は説いたことは無いし、あってはならないことである。誤った説を広める者が教団の中にいるようでは、領家・地頭・名主から取締を受けるのはやむを得ない」

「よしきた!」

親鸞の言葉を受けて、善鸞は下野・常陸・下総で門弟たちを激しく攻撃しました。

「ここの道場主は聖人さまから直接教えを受けたなんて言ってるが、それはウソだ。私こそが、ある晩こっそり、これはお前にだけ教えるのだといって、聖人さまから往生するための正しい教えを受けたのだ」

「えええ!そうだったのか!」
「ただ念仏するだけじゃダメなんだ…」
「しかし聖人さまも人の親だな。わが子にだけ教えるなんて」

素朴な門弟たちは、善鸞の言うことを信じました。ある道場では90人あまりが道場主のもとを去って善鸞につきました。関東各地に小規模な道場があって、それぞれ親鸞の教えを受けて門弟の数を増やしていたのです。そこに、善鸞が乗り込んできて、次々と門弟をかっさらっていく。こうなると道場は運営できません。

いかな師である親鸞の実子・善鸞のやることでも、見過ごしにはできませんでした。

「なんとかしてください!」

関東の道場主たちは親鸞に書状を送り、事の次第を訴えました。

「どういうことなのだ?」

善鸞からは「関東の教化はうまくいっている」と手紙が届いていました。そこへ門弟たちから「なんとかしてください」ときた。

「どっちが正しいのだ?」

そこで、親鸞は善鸞に手紙を送ります。

「関東の門弟たちが動揺している。お前はどんなやり方をしているのだ」と。

はじめのうち、親鸞は善鸞を信用していました。関東の門弟たちがワアワアいってるのは、ようするに信心が足りないせいであろう。長い間門弟たちには書状を送るなどしてきたのに張り合いの無いことだ。そういって嘆きました。しかし、その後も門弟たちから書状が届きます。親鸞も様子がおかしいことに気づいてきました。

善鸞は、有力な道場に乗り込んではお前のやってることは聖人の教えにはないと攻撃し、自分こそが聖人の教えを正しく受けているといって、門弟をごっそり持っていくのでした。そればかりか鎌倉幕府に訴えてまで道場をつぶし、自分の傘下におさめようとしていました。

親鸞は実の子の行いを知ってガクゼンとしました。

「何たることだッ…!」

親鸞は関東の門弟たちに書き送りました。

「善鸞の説いていることは、まったくのウソである」と。

「やっぱりおかしいと思ってたんだよ」
「インチキじゃねーか」
「聖人の息子だからって、ロクなもんじゃねえな」

関東の門弟たちはとたんに善鸞から離れていきました。

「ぐぬぬ…。かくなる上は!」

善鸞はかさねて鎌倉幕府に訴えて、取締をキツくしようとしました。またこれまでの教えはしぼんだ花だ、捨ててしまえと説きました。善鸞の攻撃は、ついに父親鸞にまでおよびます。

「あれは継母である尼にいいくるめられて、いい加減なことを言っているのだ。信じてはならぬ」

こうなっては、親鸞も、だまってはいるわけにはいきませんでした。

建長8年(1256)5月29日付けで善鸞および門弟の性信に手紙を書きます。

いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもきひりたり

『親鸞聖人御消息』第九通

すなわち父子の縁を切るとの宣言です。時に親鸞84歳。

「善鸞、なぜこんなことに…父がお前のことをどれほど愛していることか…」

その後、関東の門弟たちの動揺はしずまっていきました。善鸞の支持者はいなくなりました。鎌倉幕府による訴訟もとりやめになりました。教団は安定をとりもどしました。

まさに泣いて馬謖を斬るのたとえ。しかも馬謖とちがって善鸞は実の息子です。親鸞の心中、いかばかりだったでしょうか。

その後の善鸞がどんな人生を歩んだかは、よくわかっていません。

次回、「親鸞の生涯(八)入寂」に続きます。

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