親鸞の生涯(最終回)入寂
先日は京都駅八条口の長福寺で「声に出して読む 小倉百人一首」を開催しました。今回は七回目。最終回でした。一年間の、さまざまな思い出が胸によぎり、しみじみしました。二次会も京都駅近くの居酒屋で大いに盛り上がりました。来てくださった方々、ありがとうございます!
本日は「親鸞の生涯(最終回) 入寂」です。
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親鸞 過去配信ぶん
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晩年の著述活動
息子・善鸞を義絶して親子の縁を切った後、親鸞の執筆活動はいよいよ盛んになりました。
その傍ら、法然聖人の『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』を書写し、関東の弟子たちに消息(手紙)や聖教を送り続けました。
「父上、あまり根をつめられては、お体に触ります」
「覚信…心配するな。それよりも私は生きているうちに、書き残さねばならぬのだ…ごほっ」
入寂
弘長ニ年(1262)11月下旬、90歳の親鸞は三条富小路の住房「善法坊(ぜんぽうぼう)」にいました。この頃から親鸞は体調が悪くなります。世俗のことはあまり口にしなくなり、もっぱら念仏ばかりしていました。
「私が死んだら賀茂川の魚の餌にしてくれ」
「そんな父上…」
末娘の覚信尼が、親鸞の看病をしました。息子の益方(ますかた)入道も越後からかけつけました。親鸞の妻・恵信尼はこの年81歳。越後から京都への旅はとてもかないませんでした。それで息子の益方入道を京都によこしたのでした。
弘長二年(1262)11月28日、ついに息を引き取りました。享年90。
我が歳きわまりて、
安養浄土(あんにょうじょうど)に還帰(げんき)すというとも、
和歌の浦曲(わかのうらわ)の片男浪(かたおなみ)の、
寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり。我なくも法(のり)は尽きまじ和歌の浦
あおくさ人のあらんかぎりは弘長二歳十一月
愚禿親鸞 満九十歳
『御臨末の御書(ごりんまつのごしょ)』
わが命は尽きて弥陀の浄土に帰っていくが、
和歌の浦曲(わかのうらわ)の片男浪(かたおなみ)…和歌山県和歌浦に
長く突き出した地形)の波が、寄せては帰るのと同じで、また帰ってくる。
一人いて喜ぶ時は二人と思え。
二人いて喜ぶ時は三人と思え。
その一人は親鸞である。
私がいなくても仏の教えは尽きないだろう。
和歌の浦の青草のように人がたくさんにいる限りは。
「和歌の浦曲」は和歌山県和歌浦ち海岸の湾曲した所。「片男浪」は和歌の浦の砂嘴(さし)。「砂嘴」は砂の堆積して海の中に突き出した地形。
お釈迦様と同じく、頭を北に、顔を西に、右脇を下にしての御入滅でした。弘長二年(1262)11月28日は新暦でいうと弘長三年(1263)1月16日です。
この親鸞聖人入滅の日を中心に、現在、東本願寺では旧暦で、西本願寺では新暦で、報恩講が行われています。
御臨終の席には末娘の覚信尼(39歳)と、息子の益方(ますかた)入道、そして多くの門弟の方々がいました。
御臨終の地「善法坊(善法院)」の場所についてはいくつか説があります。しかし一般には現在の京都市役所の西、御池通(おいけどおり)柳馬場(やなぎのばんば)の京都市立京都御池中学校付近とされています。
見真大師(親鸞)遷化之旧跡
見真大師(親鸞)遷化之旧跡
親鸞の遺体は1月29日には鳥辺野(とりべの)の南・延仁寺(えんにんじ)で荼毘に付され、翌30日、拾骨し、鳥辺野北の大谷(おおたに)に葬られました。50年前に法然聖人の遺体を埋葬した場所の近くです。
翌12月1日付けで、覚信尼は越後にいる母・恵信尼に父親鸞の往生を報告しました。
10年後の文永9年(1272)、親鸞聖人の墓を末娘の覚信尼の敷地内、現在の知恩院三門北側の崇泰院のあたりに移しました。
崇泰院(大谷本願寺故地)
この時、親鸞聖人の遺徳をしのぶ人々により廟堂が建てられ、聖人の木造が安置されました。親鸞聖人の廟堂は「大谷廟堂(おおたにびょうどう)」「大谷御影堂(おおたにごえいどう)」などとよばれるようになります。
これが後の本願寺に発展していきます。
大谷廟堂から石山本願寺へ
「大谷廟堂」「大谷御影堂」は留守職(るすしき)とよばれる管理人によって三代にわたって守られました。留守職は親鸞聖人の末娘・覚信尼(かくしんに)を初代として、覚信尼→覚恵(かくけい)→覚如(かくにょ)と世襲されました。三代覚如のとき、それまで「廟堂」だったものを「寺」にあらため「本願寺」と名乗りました。
室町時代、八代蓮如聖人のとき大谷の本願寺は大いに栄えますが、他の宗派の反感を買い、寛正6年(1465)比叡山延暦寺によって破壊されました。
蓮如聖人はその後、北陸・関東・東北で布教活動に励み、本願寺勢力を回復し、京都の東・山科(やましな)に本願寺を再建しました。しかしこの山科本願寺も蓮如没後の享禄5年(1532)、日蓮衆徒と近江の六角定頼(ろっかく さだより)の連合軍に焼き討ちにされます。そこで山科から大坂に本山を移し、石山本願寺となりました。
石山本願寺推定地(大阪城内)
以後、石山本願寺は大いに勢いを増します。寺内町が発達し「摂州第一の名城」と讃えられました。戦国時代には11代顕如の下、一向一揆の総元締めとして、名だたる戦国大名たちにも劣らぬ一大勢力となりました。
蓮如上人袈裟がけの松跡(大阪城内)
やがて天下布武をめざす織田信長と対立します。元亀二年(1571)比叡山延暦寺を焼き討ちにした織田信長は、次なる敵を石山本願寺とさだめます。元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで11年間、石山本願寺と信長の間で石山合戦が戦われました。
天正8年(1580)石山本願寺は正親町(おおぎまち)天皇のなかだちで信長と講和をむすびました。しかし講和といっても事実上は石山本願寺の敗北でした。
この時、信長との講和をめぐって、本願寺内部で対立が起こりました。顕如の長男・教如は最後まで信長との徹底抗戦を主張したため、ついに顕如は教如を一時的に勘当しました。このことが後の西本願寺・東本願寺の分裂につながっていきます。
本願寺は講和条件により大坂を離れて紀州鷺宮(さぎのもり)・貝塚・天満(てんま。大阪府大阪市北区天満)を経て、天正19年(1591)豊臣秀吉に京都六条堀川に土地を与えられ(現在の西本願寺の位置)ふたたび京都に移されました。
現 西本願寺 阿弥陀堂
西本願寺・東本願寺に分裂
文禄元年(1592)11代顕如が没すると長男の教如が12代となります。ところが翌年、豊臣秀吉により、教如はやめさせられ、弟の准如が本願寺12代となります。教如はやむをえず隠居しました。
慶長5年(1600)徳川家康が関ヶ原の合戦に勝利し天下をにぎります。2年後の慶長7年(1602)、家康は隠居していた教如に六条烏丸(ろくじょうからすま)に土地を与えます。教如はここにもうひとつの本願寺…東本願寺を開きました。
現 東本願寺 御影堂門
こうして西本願寺・東本願寺に分裂して今に至ります。
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李白の代表的な詩33篇を選び、日本語と中国語で朗読し、現代語訳と解説を加えたものです。
李白の生涯をたどりながら、詩の朗読と解説を挿入するという構成になっています。通して聴くと、李白の詩とともに李白の人物像が浮かび上がってきます。
時に豪快。時に繊細な、李白の詩の世界にとことんひたれます。
京都講演■京都で声を出して読む 小倉百人一首
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4/28(日)17時~京都駅八条口徒歩10分。長福寺にて。最終回。小倉百人一首の歌を会場のみなさまとご一緒に読み、解説していきます。86番西行法師~