親鸞の生涯(六)関東から京都へ

こんにちは。左大臣光永です。

さっき定食屋のテレビで『水戸黄門』をやってたので、みるともなくみてたんですが、ビックリしました。助さん格さんが、刀を抜かずに素手で戦うじゃないですか。敵の全員を、パンチとチョップで倒してました。今の時代、ザコ敵でも殺すとクレームが来るんでしょうか。それにしても刀持ってる敵に、素手で立ち向かうのはキケンすぎると思いました。

本日は「親鸞の生涯(六)関東から京都へ」です。

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常陸 小島草庵

建保2年(1214)、常陸入りした親鸞・恵信尼一行は、下妻の幸井郷(さかいごう)というところに小島草庵(おじまそうあん)なる庵を結びます。そして関東の人々に専修念仏の教えを説いてまわりました。

「みなさん、阿弥陀さまの名を唱えましょう。そうすれば誰でも救われます。男も女も、年寄りも、子供も、武士も庶民も関係ありません」

当時、猟師は生き物を殺すから汚れた職業である。死後救われないとされていました。商人も、金に執着するから汚れた職業である、死後救われないとされていました。武士は人を殺すから救われないとされていました。

こうしたことは上が押し付けたイメージというより、彼ら自身がそのことで心を痛め、罪悪感を抱いていました。

そんな彼らに対して、猟師が生き物を殺したっていいんだ。商人が金に執着してもいいんだ。武士が戦で人を殺したっていいんだ。

念仏を唱えさえすればどんな身分でも、職業でも救われる。その教えをきいて、自分は死後地獄行きとばかり思っていた人々は、大喜びしました。

親鸞はこのように述べています。

「かような商人・猟師・さまざまのものは石・瓦・礫のような自分らのことである」(『唯心抄文意』)

つまり、商人や猟師は自分は罪作りで地獄行きと悩んでいるけれど、罪作りでいえば自分などまさにそうだ。自分の罪に打ちひしがれた、罪人にこそ救いはあるのだと、親鸞の思想は深まっていきます。

『親鸞伝絵』によると、親鸞がどんどん信者を増やしていくのを見て、怒っている人物がいました。

「何が専修念仏だッ!まやかしだッ!」

その名は弁円(べんねん)。修験道の山伏です。弁円は、親鸞の伝えた専修念仏のせいで自分とこの信者が減ったことに怒っていました。

「もうガマンならん。親鸞め、どうするか見ろ」

弁円は親鸞がいつも通る板敷山で親鸞を待ち伏せしました。

しかし毎回すれ違いとなり、いたずらに日数を重ねました。さこで親鸞の草庵に直接おしかけました

「親鸞!お前が来てからというもの、多くの者がまやかしの教えに惑わされ、こっちは上ったりだ!覚悟しろ!」

「もとより覚悟はしております」

「なに!」

「生きるも死ぬも、阿弥陀さまの御手にゆだねております」

「ぐぬぬ…この状況で落ち着き払いおって。いい根性だ。そこになおれ!!」

ぎりぎりとにらみつける弁円。

無言で端座する親鸞。

やがて。

「許してくれッ!」

ばっとひざまづき、

「あなたのような方を殺そうとしたなんて、俺はなんて浅はかだったんだ!」

これまでの殺意は消えて、後悔の涙があふれ流れました。弁円はその場で弓の弦を切り、刀を捨て、専修念仏者となり、明法坊の名を与えられました(『親鸞伝絵』)。

いかにもウソっぽい話ですが、創作ではありません。後年、親鸞が弁円について語った書状が見つかっています。

その中に、弁円はかつて親鸞に敵意をもっていた。しかしその心をひるがえして門弟となった。ついに極楽往生を遂げたと書いてあります。物語風の脚色はあれ、話の大筋は事実と思われます。

親鸞は下妻の小島草庵に三年を過ごした後、笠間郡稲田郷(現 茨城県 稲田禅房西念寺(稲田御坊))に移りました。稲田は南西に筑波山が美しくそびえて見えます。

親鸞はここ稲田の地に二十年近くをすごし、専修念仏を熱心に述べ伝えました。門弟の数はどんどん増えていました。

その中には名主もいれば商人もおり、鎌倉幕府の武士もいたと思われます。しかしもっとも多かったのは無学な農民だったはずです。

親鸞自身が門弟たちについて

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きわまりなき

『一念多念文意』

と書いています。

『教行信証』を書く

親鸞の稲田での活動として重要なものに、『教行信証』の執筆があります。現在、浄土真宗の根本聖典とされるものです。

『教行信証』。正式には『顕浄土教行証文類(けんじょうど きょうぎょう しょうぶんるい)』。教・行・信・証・真仏土(しんぶつど)・化身土(けしんど)の六巻から成ります。

阿弥陀如来の名号を唱えることはすべての行にまさる正行(しょうぎょう)であって、阿弥陀如来の名号を唱えることによって衆生は極楽往生できる。そして阿弥陀如来への信心は、自力による修行から出るものではなく、ひたすら阿弥陀如来にすがる他力から出るのだと説かれています。

親鸞は元仁元年(1224)頃までに『教行信証』の初稿を完成させたと見らます。ただし完成した時期については異説も多く、はっきりわかっていません。また、いったん完成した後も晩年まで何度も修正し、微調整を加えていたさまが見て取れます。

親鸞は『教行信証』を書くにあたって、鹿島社(現 鹿島神宮)をおおいに利用したようです。鹿島社には多くの文献が集まり、さながら仏教図書館の様相をていしていました。

現在、鹿島神宮の境内に親鸞上人旧跡の碑が立っています。

帰洛

親鸞は20年間にわたる関東での専修念仏伝道の後、京都に戻りました。京都に戻った時期は正確にはわかりません。親鸞は関東に「20年を過ごした」と記録にあるので、親鸞が関東に下った建保2年(1214)から計算して、少なくとも天福元年(1233)以降と思われます。

京都に戻った理由も諸説あります。家庭内の事情とする説。『教行信証』を完成させるため、豊富な文献が手に入る京都に移ったとする説。京都で専修念仏弾圧が激しくなっていたためとする説。

箱根にて

『親鸞伝絵』によると、

途中、親鸞一行は鎌倉に立ち寄り、国府津(こうづ)に滞在し、箱根に入りました。箱根社(箱根権現)近くを通った時は、もうすっかり暗くなっていました。

「一休みしたいものだ。おっ、いいところに人家があるな」

訪ねてみると、中から一人の老人が出てきました。

「私は箱根社の神官ですが、さっきうとうとしていると、夢の中に箱根権現があらわれて、おっしゃいました。もうすぐ私の大切な客人が通るから、もてなせと。すると、あなたさまが通りかかったのです」

老人は親鸞一行を招き入れ、丁重にもてなしてくれたという話です(『親鸞伝絵』)

嘉禄の法難

親鸞が京都にもどってきたころ、京都ではふたたび専修念仏への迫害が起こっていました。

「嘉禄の法難」です。

「専修念仏者の横暴、もうガマンできぬ!」
「法然の墓を暴いて、遺体を鴨川に流すべし」

比叡山延暦寺の悪僧たちはワアワア言っていました。こうしたとは、いちがいに比叡山側の誤解や偏見とは言えませんでした。

たしかに専修念仏信者の中にはふとどき者がいたのです。

阿弥陀さまの救いにすでに預かっているのだから、何やったって許されるんだ。まして悪人こそ救われるなら、どんどん悪事を働くべきだ。そんな考えをもって、メチャクチャやるもの(憎悪無碍)。

念仏だけが正しいのだからといって、日本古来の神々への信仰や、念仏以外の行、真言や座禅を行っている者をバカにする者もありました。

嘉禄3年(1227年)6月、比叡山延暦寺が専修念仏の停止を朝廷に訴え、東山吉水の法然の墓を破却しようと押し寄せてきました。

六波羅探題の武士たちが出動すると比叡山の悪僧たちは逃げていきました(『明月記嘉禄三年六月廿七日条』)。しかし、いつまた押し寄せてくるかわからない。そこで法然の遺骸は門弟らの手で嵯峨清凉寺から太秦広隆寺に移され、後日西山粟生(あお)の地で、荼毘に付されました。

7月5日、比叡山の要請によって朝廷は法然の門弟であった隆寛・幸西・空阿弥陀仏を流罪とします。そのほか門弟40人が逮捕されます。

同年10月、比叡山の悪僧たちは京都中から法然の『選択本願念仏集』をかき集め、印版を没収し、延暦寺の庭にこれを積み上げて燃やしました。仏の道に反した悪書として、焚書にしたのです。

親鸞が京都にもどってきたのは、こういう時期でした。法然の入寂から15年経って、専修念仏への迫害がふたたび激しくなっていたのです。

次回「親鸞の生涯(七) 善鸞義絶事件」に続きます。お楽しみに。

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解説:左大臣光永

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