親鸞の生涯(五)越後から関東へ

「では、聖人」
「うむ。越後は寒かろうが、体に気をつけてな」
「もったいないお言葉です。聖人こそ、お体に気をつけて」

京都を後に親鸞は越後へ。法然は土佐へと向かいました。以後、二人がこの世では再会することは、二度とありませんでした。

親鸞 過去配信ぶん
https://history.kaisetsuvoice.com/cat_Kamakura.html#Shinran

越後時代

建永2年(1207)2月、親鸞は京都を後に、配流先の越後国府(新潟県上越市)へ向かいました。

「では行こうか」
「あなた、どこまでもついていきます」

ほんぎゃ、ほんぎゃ、

「まあまああなたたち、大丈夫よ。どこへ行っても、阿弥陀さまが守ってくださいます」

途中の正確なルートは不明ですが、おそらく琵琶湖の西を通って越前→加賀→越中を経て越後へ進んだものと思われます。

また越後へ向かう際、親鸞は妻・恵信尼(えしんに)と、二人の子、小黒女房(おぐろにょうぼう)と善鸞(ぜんらん)を伴っていたと思われます。

親鸞が越後でどのような暮らしをしたのか?伝える史料はありません。具体的なことは一つもわかりません。

ただ配所生活といっても飲まず食わずの悲惨なものではなかったとおもわれます。

というのは、親鸞は京都で恵信尼と結婚し、恵信尼をともなって越後に入ったようです。そして恵信尼の実家・三善氏はしばしば越後の国司をつとめました。また親鸞が越後配流となる直前の1月、親鸞の叔父にあたる日野宗業が越後権介となっています。

つまり親鸞の妻の実家である三善氏があらかじめ越後における親鸞の受け入れ体制を整えていたと考えられます。親鸞の叔父が越後権介となったのも三善氏のはからいだったでしょう。そのため配所生活といっても、衣食住に困るほどではなかったと思われます。

後年、日蓮が何のつてもないまま厳寒の佐渡に流されたのとは、まったく事情が違っています。

また親鸞は日蓮のような迫害も受けなかったと思われます。北陸道でははやくから専修念仏がさかんであったからです。罪人の身で堂々と布教するというわけにはいかなかったでしょうが、かといって弾圧されることもなかったはずです。

承元5年(1211)3月3日、恵信尼との間に子が生まれます。この子は明信(みょうしん)と名付けられ、後に出家して信蓮坊とよばれます。

法然の帰洛

配所生活4年目の建暦元年(1211)11月17日、朝廷は法然・親鸞の罪を赦しました。後鳥羽上皇はもともと法然に同情的でした。自分の寵愛する女房が出家したのでカッとなって処罰したものの、喉元すぎれば怒りもおさまったのかもしれません。

しかもこの時、法然はもう79歳です。年老いた法然に、いつまでも配所生活をさせることは心苦しいと、後鳥羽上皇は感じられたのかもしれません。

法然は罪赦され京都に戻ってきました。東山吉水の庵は荒れ果てていたので、九条兼実の弟にあたる天台座主慈円のはからいで、大谷に居を設けることとなりました。現在の知恩院勢至堂のあたりです。そして二ヶ月後の建暦2年(1212)正月25日、法然は帰らぬ人となります。

親鸞も法然と同じ日に罪赦されました。しかしすぐに京都には戻りませんでした。明信=信蓮坊が生まれたばかりで、しかも冬の真っ只中だったためと思われます。子供が風邪でもひいたら大変だ、ということだったかもしれませんが、結果として、法然の死に目にはあえないということに、なりました。

越後から上野へ

親鸞は赦免された後もしばらく越後に留まりましたが、やがて常陸国(茨城県)をめざして出発します。なぜ常陸か?その理由は、親鸞自身も、恵信尼もまったく書いていないので、不明です。

恵信尼の実家・三善氏が常陸に所領地があったためとする説、北陸から関東へ移住する農民にまじって親鸞たちも移住したという説、『教行信証』を書くのに鹿島社(鹿島神宮)が近いことが都合がよかった説、法然亡き後の京都には魅力を感じなかった説など、いくつか説がありますが、決定的なことはわかりません。

親鸞と恵信尼一行は越後から、信濃を経て、建保2年(1214)には上野国(群馬県)佐貫(群馬県邑楽(おうら)郡明和(めいわ)町)に入っていた記録があります。

途中、信濃で善光寺に参拝したという説もあります。善光寺は阿弥陀信仰のさかんな寺ですので、親鸞はおそらく参拝したでしょう。現在、善光寺本堂外陣には「親鸞松」なる一本松が生けられています。善光寺と親鸞の結びつきを示すものです。

浄土三部経の千回読経を中止

親鸞は上野国佐貫に入ると、ある目標を立てました。

「浄土教三部を、千回読経するのだ。衆生利益のために」

浄土教三部とは『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の三つの経典をあわせていいます。それを千回読むというのです。たいへんな修行です。

張り切って始めた親鸞でしたが、4・5日経って、はたと思い当たりました。

「念仏のほかに何の不足があって、経を読むのか」

ただ念仏する。それが専修念仏の教えである。それなのに自分は比叡山にいた頃のクセで、厳しい修行による、自力による救済に、いまだにこだわっていた。救いは他力にこそあるのに。

親鸞は浄土三部経を千回読むことはやめて、そのまま常陸に向かいました。

これは「途中でイヤになった」とか「親鸞も根気がないなあ」なんて単純な話ではありません。

親鸞は若い頃20年間比叡山で修行していました。そのため厳しい修行や学問「自力」による救済という発想が、骨の髄まで染み込んでいます。

対して法然の専修念仏は、ひたすら阿弥陀さまの名号を唱える。「他力」による救済です。親鸞は専修念仏に深く帰依したつもりでも、うっかりすると比叡山時代の「自力」による救済、厳しい修行や学問をおさめてこそ人は救われるのだということに、立ち返ってしまう。

親鸞はそれに気づいてガクゼンとしたのです。

それで、浄土三部経の読経を途中でやめたのです。

親鸞の人間らしい迷いが出ているエピソードだと思います。

親鸞の自力救済への誘惑は、この後も意識の奥深くに沈んで、くすぶりつづけました。

ずっと後年、恵信尼が娘の覚信尼に当てた手紙の中に、関東時代の親鸞のことを書いています。

寛喜3年(1231)59歳の親鸞が高熱を発して寝込んだと。床についてから4日目の明け方、親鸞は苦しげな息の下に「まあ、そのようなものでしょう」とつぶやいた。それで恵信尼が尋ねて「どうされましたか?うわ言のようにおっしゃっていましたけど」「うわ言ではありません」

親鸞が言うことに、病気をして2日も経った時、『無量寿経』を熱心に読んでいた。そこで目を閉じると、お経の文字、一字一字がはっきりと見えてきた。これはどうしたことか。念仏を喜ぶ信心のほか、何を喜ぶというのか。それで17年前のことを思い出したと。

17年前のこととは、親鸞が常陸へ向かう旅の途中、上野の佐貫で浄土三部経の千回読みを思い立って、4-5日でやめた経験をさします。あの時、自力救済への執着はスッパリ断ち切ったつもりだったのに…17年も経って俺はまだ執着している。ああ何て断ち切り難いのだと!

…こういう逸話をみると、親鸞が、法然や日蓮とはまったく性質の違う宗教者であることがわかります。

法然も日蓮も、比叡山を下った後はほとんどブレがありません。法然は生涯、念仏の道を歩み、日蓮は生涯、法華経の行者でありました。法然・日蓮はある意味、天才であり超人だと思います。

しかし親鸞は、信仰についても、家庭についても、晩年まで悩み続けています。親鸞の悩むようすは、自筆の書状などから生き生きと読み取れます。

親鸞の浄土真宗700年以上を経た今日まで生き続けているのも、天才でも超人でもない、親鸞の人間くさい苦悩が、多くの人に共感をもって受け入れられているからではないでしょうか。

次回「親鸞の生涯(六)関東から京都へ」お楽しみに。

告知

解説:左大臣光永